2013年7月15日月曜日

模倣と学びの関係

7月の3連休も今日でおしまい。昨日までは外出が多かったので、今日は家で洗濯したり本読んだりと穏やかな休日を過ごそうと思いました。

そんな中で、僕の関心領域の一つでもある「学習」や「成長」について、今読んでいる本に面白いことが掲載されているので、メモがてらまとめておこうかと。

テーマは模倣と学びです。

ポイントだけ先にまとめちゃうとこんな感じ。

【あかちゃんの学習変化】
・赤ちゃんは生まれた直後から大人の真似をして育つ。
・生後2〜3週間で自分を覗き込む大人の表情を模倣する
 (新生児模倣というらしい)。
・新生児模倣段階の赤ちゃんには自他の区別がなく、目の前の他者を
 自分と同種の存在と見なしている。表情の真似をするのも、自分と
 他人が一緒だとおもっているから。
・生後9週目あたりで、赤ちゃんは他者が自分を真似ていることを識別
 できるようになり、新生児模倣は生後二ヶ月程度で自然と消滅する。
・次の段階としては、対象物の特性に基づき、自の工夫により目的行為を
 達成する学習が始まる(エミュレーション学習というらしい)。
・脳のミラーニューロンの活動を基盤に、他者の行為を自分自身の身体が
 その行為を実行しているかのように認識しだす。
・他者の行為を観察し、内在的にその行為を「なぞる」ことにより、他者の
 行為意図を理解するようになる。
・15ヶ月を過ぎると赤ちゃんには完全に自他の区別ができ、他者の行為の
 背後にはその人の意図があることを意識するようになる。さらにはその
 意図を踏まえ、独自行為ができるようになる。

このように、赤ちゃん(というか人間)は、模倣をとおして認識力を高め、自他の区別を見いだす。さらには、脳の発達とともに頭の中で他者の行為を「なぞる」術を身につけ、他者行為の意図の把握やさらには共感的な他者理解というコミュニケーション手段を身につけていく生き物のようですね。


さらに面白いのが、この真似る/なぞるという行為が幼児の生活においても出てくるということです。

幼児の研究で明らかになっている様なのですが、幼児は「まねること」を特定の仲間に対する仲間入りの儀式や忠誠の証として行い始めるんだそうです。

これは僕にも明確な記憶があります。小学校入学前に引っ越しして、近所のお兄さんたちと遊んでもらう前提で「オー、お前これできるか?」って特定の仕草や行為を見せられ、もじもじしながらも「こう?」とかいってその行為をなぞる。「オー、オメーやれんじゃん。じゃー一緒いくか?」みたいな感じで(笑)。

思い返すに、あれは自分たちの仲間になる資格があるかどうかのテストなんでしょうね。
真似や模倣が、たとえ本人には意味がわからなくても、なんらかの集団に参加する条件になってしまう。

真似る、模倣するという行為には「行為意図の理解」という意味の他に、交渉のコミュニケーション手段という意味になってくるみたいです。

赤ちゃんにおいても生後30ヶ月あたかりら観察されるらしいのですが、「まねる」–「まねられる」の関係作り自体が相互コミュニケーションの手段に変わってしまうらしい。

この関係には・・・。
①わたしは貴方に興味がある(だから真似る)
②わたしは貴方と同じ仲間である(だから真似る)
③わたしは貴方のもとにある、あなたに従う(だから真似る)

というメッセージをやり取りしていることになるんだそうな。


よく学びの世界には、まず言われた通りやってみろ!
守・破・離、なんて言葉もありますね。この守なんかもまったく同じかも知れませんね。真似ることで行為意図を理解すると同時に、同じコミュニティの仲間になれ!と。そしてそこでの暗黙的な文脈を吸い込み理解を深めろ!と。

うーん。模倣と学びの関係・・・奥深いですのー。







2013年7月13日土曜日

PRとインストラクション


私は最近、仕事の部署が変わり新しい組織が求める仕事のレベルについていけず、ヒィヒィいっております。インストラクションを研究するどころか、自分のレベルをあげるために毎日のたうち回っている始末・・・。まぁ、これも自己成長のためのトレーニングなのかもしれませんね。出来る限り、モノごとは前向きに捉えたいものです。


さて、今日のお題はPRとインストラクション。PRというのは広告とか宣伝とか、いわゆるマーケティングなどででてくる、あのPRです。Public RelationのPRです。今のお仕事はこれまでのコンピュータシステムなどとは若干毛色の違う、戦略だとかプロモーションだとか宣伝だとか、そういうジャンルのお仕事なのです。本当は面白いんだろうけど、私にはまだそれを楽しむ余裕が十分にありません。しかし、十分に余裕は無くても、この領域を勉強する中で出くわしました、インストラクション!!

「お前もか!ブルータス!!」と言いたくなるくらい、マーケティングのジャンルにもインストラクションとデザインというものが潜んでるんだわな〜。所長はちょっと感激してしまいました。何に感激したかというと、今、『戦略PRの本質』/井口理著という本を読んでいたのですが、この戦略PRという言葉の定義がまさにインストラクションそのものなので面白かったのです。少し紹介しますね。


戦略PRとは・・・

生活者に「自分ゴト化」を引き起こす「ストーリー」を構築し、広告を含む様々なコミュニケーション施策を融合させてその「ストーリー」を伝えることで、生活者の意識変化・態度変容・エンゲージメント(共感の構築・強化)を生み出す仕組み。

と定義されています。この本自体、私にはとても面白く勉強になっているのですが、ことインストラクションの観点から見ても、面白いのです。ここにでている戦略PRの定義をみていくと、「自分ゴト化」とか「ストーリー」とか「意識変化」とか「態度変容」なんてことが書いてあります。

対象者に「ストーリー」という道具や仕掛けによって、意識変容を促し、共感を集め、特定のことがらを自分ゴトとして捉えてもらうようにする。つまり態度変容を起こすようしむける。これがインストラクションでなくてなんなんですか(笑)。そして、目的に沿って仕掛けを配置していく。これは(インストラクショナル)デザインの世界ですね。

でもちょっと怖いですね。インストラクショナルデザインは、学び手の学習を支援するためにあるわけですが、ここで取り上げた戦略PRというインストラクショナルデザインは、お客さんを学習させて、自社の商品を買ってもらったり、ファンになってもらうようしむけるためのデザインでありインストラクションであるわけなので・・・。

賢く生きるためにも、私たちの身の回りにあるインストラクションメッセージを作り手の側から捉えられる様なスキルを身につけておきたいものですね。知らぬ間に学習させられて、もの買うはめにならないように(笑)。

インストラクションの6要素


今回はインストラクションにおいて考える必要のある6要素と題して考えを巡らせていきたいとおもいます。

まず、インストラクションって何?ってところから。インストラクションというのは学習を支援する目的的な活動を構成する事象の集合体である、というのが言葉の定義です。目的達成に向けて効果的で効率の良い仕組みを学習者のために用意することと言い換えてもいいですね。

ここでポイントとなるのは意図的だということです。
学習自体は一つ前のエントリーでもありましたが、支援する側が意図していなくても学習自体が発生する可能性は存在します。

ですが、インストラクションはあくまで、教える・伝える側の意図的な行為だということです。そして、これは目的達成にむけた活動の集合体です。ですから「勉強しなさい!」だけではインストラクションというよりただのメッセージでしかありません。インストラクションはひとつのシステム(仕組みやメカニズムと言ってもよい)として捉える必要があります。

では、インストラクションをシステムとして捉えた時に、考えておくべき要素ってなんだっぺ〜?というところからこの記事の本題に進んでいきましょう。
※インストラクションをデザインするための考え方とかプロセス・手順というのも色々ありますが、それはまたの機会にでも・・・。

私が思うに、それは以下の6つなのではないかと思っています。

1.コンテンツ(インストラクションの内容のこと)
2.インストラクター(インストラクションを実施する人)
3.クライアント(インストラクションを受ける人)
4.コンテキスト(インストラクションが行われる文脈)
5.チャネル(インストラクションを提供する経路や方法)
6.タイミング(インストラクションを提供する時期や回数)

まー、誰が考えてもでてくる要素ですね。場合によってもっと多くでてくるかもしれませんが、とりあえず私は6つを考えられればいいかなーと思っています。

まずは「1.コンテンツ」ですが、これはインストラクションによって伝えたい、教えたい、学習してもらいたい内容のことです。伝えたいメッセージと理解してもらっても良いかもしれません。コンテンツの種類としては「自分の想い、感情、期待」だったり、なんらかの「知識やルールや指示」だったりします。

次に「2.インストラクター」と「3.クライアント」ですが、これは説明不要かな?コンテンツの送り手と受けてがいなければコンテンツのキャッチボールたるインストラクションが成立しないので、とーぜん必要になってきますよね。

そして、「4.コンテキスト」。これは状況とか文脈という意味で解釈してもらえるといいかとおもいます。学期末の試験が近づいている、とか、来月から新しいプロジェクトへの参加が決まっているなどの状況下であれば、「試験に向けて勉強しなさい」とか「あたらしいスキルを習得しておきなさい」というコンテンツとしてのメッセージは効果を発揮するでしょうが、何の必要性もないのに「勉強しろ」とかいわれても受け手としては「なんのこっちゃ?」という話になるよね。

さらには「5.チャネル」。インストラクションを提供する経路とか方法のことですね。これは例えば、面と向かって/電話越しに/電子メールで/ブログを使って、文字によって/絵によって/音楽によってとかそういうことをイメージして頂ければ。

そして最後は「6.タイミング」ですね。これは言わずもがな・・・。「いつやるの?今でしょ!」って、そー単純な話ではありません。今、伝えたいのはやまやま。でも、クライアントの学習効果を考えれば、グッと我慢しなければならない時だってあります。タイミングはコンテキストの一部?と言う考えもあるかもしれませんが、私はインストラクションの経験上、これはわけておきたい。ある状況下におけるタイミング(時期)というのは、それはそれで検討すべき大きな項目だと思うからです。

このように、インストラクションが効果的に行われるための要素を6つに分解してみると、いろいろと自分のこれまでの行為を振り返り易くなるのではないでしょうか?

「上司として部下に出したあの指示は本当にあの出し方でよかったのだろうか?」とか「子供に勉強しなさいと怒ったけど、怒るというタイミングやコンテキストやチャネルは正しかったのかしら?」とかね。いろいろあるでしょ?

とりあえず、6つの要素にわけて自分の行為を振り返ってみれば、インストラクションの効果をたかめるためのポイントが見えてくるとおもいます。




学習と習慣化と習慣の罠

さて、今日はインストラクションを軸に、学習と習慣化について考えていこうとおもいます。そして、学習の一つの成果である習慣化とその罠について会わせて考えていきたいなとおもいます。

ちなみに、ここまで書いた段階で私の頭にあるのは「習慣は処理効率を上げる反面、認識力を鈍らせる」という直観だけです。だから、学習するというのもいいことだけではないなぁ〜という話です。この直観を補強する論理展開などは、今この文字を入力している段階では、一切、頭に浮かんでいません(笑)。だから、この記事を書き進めるにあたって、読み手の皆さんを納得させられるかどうかは甚だ怪しい・・・。ブログの記事を書くときは推敲を一切やらないで一発勝負で投稿するのが、私のポリシーでもあるので、まーその辺は勘弁して欲しい。推敲までやって投稿するとなると、時間がかかりすぎるし、そもそもブログを書く気力が損なわれてしまうためです。

さて、本題です。
まずは、「学習」というキーワードについて。私は、いちおう「学習」という言葉を”なんらかの体験や経験によって引き起こされる永続的(一時的じゃないということ)な行動の変容(変わること)”と定義して使っています。

そして、この言葉には必ずしも倫理的な意味で「よい」ことだけではなく「よろしくない(悪い)」ことも含まれる。

例えば、テストに臨むにあたり沢山勉強していれば、「今日はこれまでの学習の成果をみせてやる〜!」みたいな感じでポジティブな態度が生まれるかもしれません。そして、そういう態度自体がご両親から「よい」と評価される場合もあります。
一般的に世の中では「勉強する」=「学習する・学ぶ」=「よいこと」という等式が成立していることが多いとおもいますが、実は決してそれだけではありません。

先にも書きましたが「学習」は「永続的な行動変容」をさします。この定義は、表現の違いこそ若干あれども、基本的には心理学の世界なんかでも同じように使われています。

そして、例えば、お兄ちゃんがお父さんに叱られる姿をたびたび目にすることで、怒られそうな行為そのものをとらなくなる、ということ自体も「学習」なのです。

学校にいって、なんかの発言をしたら「お前、そんなこともわかんねーの?」と先生から愛のない言葉を浴びせられてその子なりの傷を抱えてしまったがために、そもそも発言という行為自体をとらなくなってしまう・・・それも学習です。
まぁ、こういう時の学習は基本的に「ネガティブ学習」というんですけどね。

ですから、学習には教える側から見た時に「ポジティブ」に見える学習と、「ネガティブ」に見える学習の2形態があるのです。インストラクション(教える/伝える)という行為に携わる人間はインストラクションの対象である相手(学習者)がどいういう人間であるのかをよーく知る必要があります。そうでないとインストラクターが意図したインストラクションとは別のところで学習者が意図とは異なる内容を学習しちゃうことだってあるからです。

ちなみに、我が家の奥様は旦那である私をいつも叱ります。
キーキーとあたかも私が駄目人間であるかのごとくネチネチ口撃するわけですが、これは駄目な例ですね(笑)。奥様は私に何らかの行動変容をさせたく、躾と称してネチネチやりますが、私からすると「この人は生涯の伴侶に果たして相応しいのか?」とか「旦那に対する敬愛の心はねーのか?」とか「自分が同じことされると逆切れするくせに、なんで俺のときだけ・・・」と恨みが募ったり(笑)。奥様が臨む行動変容とは真逆の行動変容が起きつつあります(笑)。

では、極力、学習者にとってポジティブなカタチでの学習が起こるようにインストラクターは促していけばよいのか?基本的にはYESなんですが、ここに今回の記事でもう少し考えたいことがらが横たわっています。

一般的に、スポーツでも勉強でも仕事でもいいんですが、何か新しいことにチャレンジしようとすると、分からないことが多いため、情報を仕入れて整理したり、行動において試行錯誤したり工夫したりと学習の機会が多くでてきます。そして、学習をひとつづつ積み上げていくと、自分にスキルという名の能力が身に付き、同じことを2度目にやると1度目とは圧倒的に効率よく高いレベルでこなせるようになってきます。こーなってくると、やってる方は面白くなってドンドンドンドン、自分から更なる自己研鑽につとめるようになります。いわば学習の習慣化という状態が起きます。それによって、スキルにも磨きがかかるわけなので、どんどん課題や問題をこなすスピードも上がってきます。

一般的に、習慣化が起こると、何かしらのパターンというものが頭というか身体的に構成されるようで、一から毎回毎回考えずに、身体的に馴染んだパターン処理によって初心者ができないくらいの高いレベルとスピードでモノゴトをさばけるようになってきます。

おそらく、小さい子供をもつ親御さんは、どうすれば自分の子供が勉強する習慣をみにつけてくれるのかと頭を悩ませているのではないでしょうか?その悩みを解決するヒントは、おいおい取り上げていこうとおもいますが、今日はいったん保留にします。

話を戻しましょう。
習慣化によってパターン処理能力が上がり、個人のスキルも高くなる・・・万々歳じゃないの???と思うかもしれません。私もある状況下では「万々歳!」と思います。


でもね、「習慣は処理効率を上げる反面、認識力を鈍らせる」んだよ。

習慣というのは大して意識しなくても特定の条件が揃った事象を前にすると、ひょいひょいと何らかの行動が起こってしまうことです。

・食事をしたら散歩をする
・朝起きたら1時間、英語の勉強をする
・毎週日曜日の夜は、次の1週間の計画を立てる
・寝る前に30分かならずストレッチをする

というレベルから・・・

・「企画書を書け!」と言われたら○○と△△と××の流れで構成をつくる
・問題が出題されたら、Aを見て、Bを探し、Cを選択する

などなど、色々ありますわな。

そして、そのような行動習慣が自身の問題解決能力を効率化している一方で、ややもすると、ある事象に出くわしたときの新たらしい取り組み方の可能性を切り捨てていたりするかもしれません。特に注意が必要なのは問題を取り巻く外部環境が変わった時ですね。これまで以上にもっとよいと言われる方法、技術が発明されたとか、これまでとは社会、地域、経済状況が変わってしまったなどと言った場合であったとしても従来通りの習慣だといって同じやり方、同じ処理パターンに意識/無意識にこだわっていると、あるとき突然、自分のやり方がこれまでとは同様の期待値に達しない、なんてことが起こってきます。

ですから、改めて効果的な学習を目指すと言う意味でも、一度、自分の持っている習慣を棚卸しして、その習慣が自分の強みとしてこれからも有効かどうか、振り返ってみることが重要かもしれません。

そして、効果的なインストラクションのためにも、指導する側はそういうことを学習者に意図的におこせるようになる必要がありますね。

アリストテレスの教育論


アリストテレスの教育論の概要を勉強していて興味深いと思ったことをいくつか。アリストテレスが生きていた当時のアテナイでは、読み書き、体育、音楽、図画の4科目が子供達に教えられていたそうです。4科目のうち、音楽以外の科目はみな実用的な側面を持っており、教える側もその必要性に対して疑念を差し挟まなかったようです。しかし、音楽はたいした実用性も無く、たんなる楽しみのために存在する・・・。これにはそれなりの議論があったみたいですね。ちなみにこの当時の音楽とは詩の朗読だったりするので、今で言う文学と言い換えてもいいかもしれませんね。

音楽の実用性が問われる中、アリスト君は「閑暇と仕事」という区分を導入し、音楽教育の意義を説明したみたいですね。閑暇とは、単なる暇な時間や疲れを癒す休息の時間ではありません。アリスト君は閑暇を人間が学問や芸術に専念し、幸福を実現するための自由で満ち足りた時間と定義していたようです。要はアリスト君にとっては閑暇>仕事であって、仕事は充実した閑暇を過ごすための手段という位置づけだったわけですね。ちなみに、アリスト君が考える政治の目的は「国民を幸福にする」ことにあったので、閑暇の過ごし方を教えることは一種の政治学マターだったようです。ですから、ことのほか先にあげた4科目のうち、音楽はアリスト君的な教育観のもとでは、ことさら重要視されたようです。この視点は今の我々にも大事な示唆を与えてくれますね。仕事の合間の余暇ではなく、充実した人生を過ごすための閑暇。これを獲得する手段としての仕事。現代社会をせっせと働いて過ごす我々には大事な示唆を与えてくれているような気がします。

アリスト君について調べていて面白いのが、プラトンが作ったアカデメイアに20年近く滞在し、そこで「読書家」というあだ名を付けられていたこと。ここでいう読書家とは、アカデメイアに保管されている蔵書を朗読する役割をアリスト君が担っていたことからついたあだ名のようです。当時の最先端の情報がアカデメイアに集められ、そこでアリスト君は色んな人たちの本を読んで聞かせていたのでしょう。当時は黙読というものがありませんでしたからね。一番効率のよい学びというのは人に教えることだとよく言われます。そういう意味では、アリスト君はいつも人に書物を読んで聞かせながら自分が一番勉強していたのでしょう。この読書家(=朗読家)としての20年が、知の巨人としてのアリスト君を形成していたのかもしれませんね。

レトリックの歴史

レトリック・・・。その目的は人を説得し、人を動かすこと。レトリックの重要性はギリシアにおいて専門知の限界を示していると認識されていたようです。いかに専門知が発達し、事物に関する認識を深めようとも、それだけでは人々に受け容れられない。受け容れられるようにするには何が必要なのか?それがレトリックであると認識されていたみたいですね。

人を説得するには、ただ内容の正しさだけを考えていてはいけません。アリストテレスはレトリックを考える際に、「語り手」「内容」「聞き手」の3要素を考慮することが重要であると考えていたようです。「語り手」に関して重要なのはエートス(人柄)。話が相手に届くためには、聞き手に対して語り手が信頼できる人間であると認識してもらう必要があります。一方で「聞き手」に関して考慮すべきは、聞き手のパトス(情念)であるとのこと。今の言葉でいえば、相手の心理状態といってもいいかもしれませんね。相手の心理状態を意識したメッセージを発しないと行けません。アリスト君は相手の情念にもっとも効果的に作用する手段がユーモアであると考えていたようです。そして「内容」ですが、これのポイントはロジカルということですね。支離滅裂でストーリー不明の話ほど聞いていてストレスの高い話はありません。だからこそ論証や論理というものが大事であるわけですね。


レトリックで重要視されているのが弁論。そしてこの弁論には5つの要素があるとされています。①発想、②配置、③修辞、④記憶、⑤発表がそれです。いわゆる弁論を作り上げる過程といってもいいかもしれません。


弁論の5要素の①発想。コレは、どのような視点や戦略のもとで語るかという、いわば全体構想みたいなもの。②の配置は、弁論の構成のことですね。起承転結とか結論・理由・結びみたいな説明の構成です。そして③の修辞。これは弁論、説明における装飾にあたるものです。比喩や隠喩などが装飾に該当するでしょうが、そもそもこれは歴史を始めとする様々な情報を持っていないと成り立ちませんね(苦笑)。それから④の記憶。話す内容を記憶していないと、相手の前で効果的に話すことは難しい・・・。この記憶をサポートするために考案された技がいわゆる記憶術ですね。記憶術を単なる暗記術と侮っては行けません。これは17世紀まで影響力を持ち続けた奥の深い深い技です。そして最後の⑤発表。これは今の我々の言葉でいえばプレゼンテーションでしょうか?


キケロが生きていた時代では、哲学に関する教養に裏打ちされた弁論が豊かな弁論と認識されていたようですね。それから、哲学と合わせて重要視されていたのが歴史!ただ、この時代の歴史というのは科学的に論証された過去の事実としての歴史ではなく、「教訓の宝庫」としての歴史ですね。歴史から教訓を引き出し、弁論を装飾する・・・レトリック上外せない教養だったようです。


レトリックは発表というフェーズにおいては、視線、声、表情、ジェスチャーと関係することになります。キケロによれば、役者の芸というものはもともとレトリックから派生したものなんだそうです。ですからキケロは、弁論を行う人間は役者から発表について学ぶことが大事であると思っていたようですね。キケロ自身、ロスキウスというローマの俳優の演技について何度も言及しています。レトリックは哲学や歴史といった学問的な教養だけでなく、演劇的な動作や声、表情のつくりかたと言った、いわば身体的な知とも深く関係しているわけですね。


生きた!という実感について

「生きた」という実感はどういうときに生まれるのでしょうか。何かを達成・成し遂げたときでしょうか。それとも、何かしらの危険を回避できたときでしょうか。僕は自分のこれまでの人生を振り返ったときに、いろいろ思い出はありますが、強烈な印象を伴って思い出せる「生きた」なと感じられる記憶はすべて他者との強い関係性のなかで生まれていることを再認識しました。父親や母親との関係もそうですし、妹との関係もそう。奥さんや友人との関係でも「生きた」という思いを持ちましたし、仕事の文脈ではお客様やパートナーの方々とのガチンコでのぶつかり合いなんかもそうですね。最近では、ミュージカルにおける舞台上の役者さんの真剣な演技と観客の真剣なまなざしの中に生まれる関係性、これも「生きた」なという強い感触を呼び起こしてくれます。ではなぜ、このような他者との強い関係性において、自分は「生きた」という感触を得られるのでしょうか?自分という存在の根底が欲する欲望をなにがしかの形で満たせてるんじゃないか、というのが現時点での僕の回答です。では、それはどんな欲望なのでしょうか・・・僕にとってそれは僕という存在が存在できたという喜びであり安心なのかもしれません。もっと簡単に言えば他者との関係性を通した、自己承認の欲求が満たされたのかな、と。

雑感あれこれ:人間文化を考える

松岡セイゴオ先生の本を読み返してみました。以前もこの本は本ブログでも取り上げていますが、読み直すとやはり勉強になります。以下はポイントポイントで頭に浮かんだ雑感です。


人間文化史の一番最初に出てきたものが宗教です。そして、舞踊や哲学や建築が生まれ、その後に文芸が出てきます。セイゴオ先生が説く仮説としては、その背景には常に理性の脳がいかに本能の脳の暴走を抑えるか、どのように鎮めるかという戦いがあったというものです。ポール・マクリーンという脳科学者が、ひとの頭の中には残虐さをつかさどるワニの脳と狡猾さをつかさどるネズミの脳、そして理性をつかさどる人の脳があるという仮説を提示しています。セイゴオ先生はその仮説を踏まえて、先に挙げたようなことを言っているわけですね。


人間文化・・・直立二足歩行により、発情期を失ったり、妊娠期間が他の動物と比べて異常に長くなったり(未熟児を生んで育児期間を長くする)、三つの脳を矛盾したまま持ち続けることになったり・・・。そういう欠点を補おうとする行動から人間の文化の歴史というものは始まっているようですね。


人間の才能というものを考えていると、「楽しさの追求」もしくは、「欠落や矛盾の克服」の果てに得られた能力なのではないかと思えてきます。


人間が人間として意識を持つようになったのって、一体いつくらいからなのでしょう?僕は「意識をもった最初の人間」というものに異常なくらい興味があるのです。


ワニの脳とネズミの脳をもつ人間。残忍さと狡猾さ・・・これはまさしく人間の煩悩や欲望の基底にあるものなのではないでしょうか。これを制御するのがヒトの脳である大脳皮質の役割です。煩悩や欲望の抑制、これが宗教が発生した理由のひとつなのでしょうね。もう一つ僕が理由だと思うのが、ヒトがどこかのタイミングで明確な意識を持ったため、自分の存在根拠を考えだしたことにあるのではないかということ。自分は何なんだ?生まれ、死んで、どこに行くのか?こういう漠然とした不安や疑問にさらされるキッカケが仲間や親族の死を通して感じられるようになってきたのではないか、と思うのです。


自分や自分たちの家族や部族を、奮い立たせ、励ます、ある種の「生を鼓舞する」ためのメカニズムとして宗教という物語が生まれたんだろうと思わずにいられません。自分の一生を越えて存在させる、残すという観点で、その物語は色んな芸術形式に昇華していったのではないのでしょうか?


中国思想の大まかな変遷を追いかけていると、面白いことが分かりますね。孔子、孟子に連なる儒教ですが、儒教の理想は「聖人」にあります。聖人が君主となり国を治めるというモデルを想定して説かれている教え、これが儒教のモデル。今でいうと、組織を引っ張るリーダーシップを含めた帝王学、これが儒教の本質と言えるのかもしれません。

一方で荀子は、性悪説とよべるような立場をとったと言われています。人間の性分は意地悪で、妬み深くて残酷だという立場ですね。セイゴオ先生の説く、ヒトの脳みそ3種類説でいうところのワニとネズミの脳、この2つがヒトの本質なんだとでも言えそうな立場が荀子ということです。そして、荀子は、そういう立場故に、人間は学ばなければならない、教えを受けることが必要だ、ということを説きます。孔子、孟子のコンビが性善説の立場から説く帝王学だとすると、荀子は性悪説の立場から説く教育論ということですね。


以前「名前・・・ものやことがらに輪郭を与えますが、かならずしも、その性質や感覚を伝えるわけじゃありませんね。特にその名前の当事者は与えられた輪郭を平気ではみ出します。」ということを呟きました。今、読んでいて面白いなぁと思ったことに、儒教の考え方には「分」をわきまえるという考え方があることです。先生は先生らしく、学生は学生らしく、親は親らしく、子供は子供らしく・・・。これが儒教の考え方です。それに対して、老荘思想では「道(タオ)」と言うものを説いています。タオと言うのは、宇宙には何か大いなるものが遍在していて、ここの人間はそのような大いなるものに自分を合わせれば良いのだ、という思想を意味します。そして万物斉同を説きます。何もかも似たり寄ったりなので、違いに囚われるなという考え方です。タオに向かって何も無い自分を作っていきなさい、と。ここから「無」というものを重視する視点が生まれ、かの有名な「無為自然」という言葉に繋がっていきます。お互いの社会的な地位とか役割をわきにどかして、無になってみることで、新しい関係を生み出していく。これが老荘思想にある考え方です。かなり迂回しましたが、先に引用した文言の通り、儒教は役割によってヒトやコトガラに輪郭を与えます、しかし、普通の人はそこには収まりきらない部分が残ってしまう。老荘思想は、そうじゃなくてえーんだよー、とある意味でヒトを解放してくれるような自由さをもっているんじゃないかな、と思った次第です。