2013年2月14日木曜日

【テーマ】これからの時代における組織と人の関係

人は会社に勤めれば、会社における何らかの組織に所属することになる。そりゃーそうだ。でも、意識の高い人から、もうすでにどこどこ組織の誰々です、なんて感覚は希薄化してるのではないだろーか?なんてことを最近強く感じる。

もちろん、会社に雇われれば組織に所属することにはなるんだろうけど、所属している側の社員(個人と言ってもいい)のメンタリティは同じ所属といってもニュアンスが提携とか連携といったものに変わってきているのではないか?

僕自身は入社してから10年、意識では組織への所属なんて気にしたこともなかった。でも、最近とくに組織との関わり方というのを意識するようになってきた。自分はなんでこの組織にいるのかなー?とか、この組織において自分が貢献するにはどーすりゃいいのかなー?とか、組織とどういう関係性を作るのが組織にとっても自分にとってもハッピーなのかなー?とかね。

自分が仕事を始めて10年以上たち、今年で35歳になるというのも関係しているかもしれない。単純に70才まで生きると計算してもあと30年近くは働いて生活の糧を稼がなきゃならない。人の寿命より会社組織の寿命の方が短いと言われている現在、長い目で見て、社会、会社組織と自分との関係の作り方を改めて考えるときなのかもねー。

2013年2月7日木曜日

【テーマ】振り返り学習、またの名を経験学習

自己の学びを深化させ拡張させるにはどーしたらいい?
自分の意識していない殻を破るにはどーしたらいい?

ベタな話で恐縮だが、これに対する一つの解が「振り返り」という行為なのかと思っている。「振り返り」といっても具体的に何すんの?っていう話になるかと思う。僕がここでイメージしている「振り返り」という言葉には幾つかの約束というかお作法を想定している。まず、「振り返り」のタイミングについて。僕はタイミングという意味では大きく2つあるのかな〜と思っている。
1.行為中の振り返り
2.行為後の振り返り
以上の2つだ。

例えば、あなたが何らかのプロジェクトに参加しているとしよう。プロジェクトやプロセス、またはタスクの切れ目切れ目で振り返るのが2のほうだね。これは比較的分かりやすいし、やっている人も多いかもしれない。逆に1について。これは、ある行為をする時に行為する自分と同時並行的に行為を省察する自分を準備するイメージだ。要は自分の行為をメタ認知するということ。これはどうだろう?やっている人は2に比べると減るのではないだろうか?

僕は1も2もどっちも大事だと思っている。まず、これがタイミングね。次に振り返りの内容について。これは単に何かの行為を思い返すに留まらず、幾つかの観点で行為を分析し整理、構造化することが必要だと思っている。
例えば、行為の目的、目標、作業プロセス、関係者、作業時の道具、作業時の自分の気分、自分への期待、自分の知識状態などなどをInとProcessとOutにわけて、その繋がりを一連のサイクルとして分析する・・・とかね。そして、これはPCでパワポ作るでもいいし、メモ帳に手書きでカキカキするでもいいし、ボイスレコーダーに話を録音するでもいいので、何らかのカタチで頭の外に出力するべきだ。人の認知って面白くて、考えは頭の外に出力した方が第三者的な視点で自分が出力したものを眺めることができる。そうすると意外と思考の抜けもれや気の利いてなさなど、発見が多かったりする。

まぁ、こういう行為をもって僕は「振り返り」と読んでいる。
書いていて改めて思うが、「振り返り」は意外とめんどっちぃ作業である。じゃぁ、めんどうなだけで「振り返り」には効能がないのだろうか?僕は大有りだと思っている。これは自分で長年やってきた実感であり感想でもある。「振り返り」は効果的なのだ。

何が?

まず、振り返ることによって「体験」が「経験(値)」に変化する。僕は「体験」と「経験」を意識化できているかいないかによって使い分けたい、というか使い分けている。何かの行為を味わっただけでは「体験」のままなのだ。あの「体験」は、○○で××だったなぁ、あれはこういうことだよな〜、と意識化(場合によっては言語化)出来るレベルになって初めて「経験(値)」になると思っている。だから、僕にとって「経験」とは、(己の意識を)経(た体)験という意味になる。そして、人はこの意識化という作業において直感的に体験の本質を捉まえているんだと思う。
因に僕は、多くの人は体験をしつつ無意識に意識化して経験にしていることの方が多いとも思っている。

さて、改めて「振り返り」である。
先にも書いたが、「振り返り」のためには、人は経験をなんらかの観点で分析し、整理、構造化し、頭の外にそれを出力すべきだ。そうすると「振り返り」の活動の中で自ずと経験がある体験に対する「持論」へと昇華すると思っている。いわゆる、「私の○○論」みたいなもんだ。私の筋トレ論、私のダイエット論、私のプロジェクトマネジメント論とか私の親孝行論とか色々あるだろう。いずれにせよ、「振り返り」を得ることで何らかの論ができるのではないか?すくなくとも僕はゆるいレベルで持論が形成されている。

そして、この持論をもとに次なる行為に臨んでみると、持論が一つの作業実践/作業仮説のような役割を果たし、以前よりも効率よくやれたりするようになる。また、持論をもって行為に臨むと一つのモノサシをもつのと同じことになるので、ベテランのベテランたる所以とか凄みというのが見えてくるもんなのである。見えてきたら、新しく見えてきた要素を次の「振り返り」において自分の持論(モノサシ)に組み込んでしまえば良い。

こういうモノサシが出来上がると、本を読んだり学者の理論を読んだりした時に持論の有効性や抜け漏れ確認なんかもしやすくなり学習効率がスパイラルアップに方向に進んでいく。


ということで、「振り返り」って大事だよなーって話でした。
ちなみに、ここでこうして書いているブログなんかも僕にとっては僕を振り返る良い機会だったりします。こうして書いている最中も自分の気づかなかったことを発見して面白かったりしていますし(笑)。

目下、研究テーマとしては、何をどう、いつ振り返るのが効果的なのか。誰が振り返らせてあげるのが効果的なのかを考えることだね。

2013年2月6日水曜日

【テーマ】欲望論

僕は中学の頃から気付くと「人ってそもそも何の為に生きてんだろ?」と考えるようになった。そして往々にしてこういう問いを突き詰めていくと暗くなる(笑)。答えがないからだ。何故かは知らないが、人は答えのない問いに向き合うとなんとなく不安になるらしい。僕も当時は不安だった。学校生活のひょんな行き違いから、仲間はずれにされ虐めまがいの状況に陥ったりもしたけど、そんなとき尚更、自分の存在の意味を感じられず「自分なんていなくても問題ないのではないか・・・」なんて思い詰めたりもした。そんなこんなで、僕は「人は何を求めて生きるのか?」という大きな意味での欲望論というものをコツコツと思考していくことになるわけだ。

なんとなく言えそうなのは、科学なんていうものがでてくるずーっと前の古代から人間はそのような存在の不安を抱えていたらしい。まーそうだろう。人間が「意識」というものを持ち、推論する知能というものを身につけたからには、根源まで突き詰めた「なぜ」という問いを発せざるにはいられないものだ。因果を考え出したときに、その根源まで突き詰めないと納得できない生き物が人間だろう。古代の人はこの存在の不安を紛らわせたいのか分からないが、神話というものを作った。神話には自分たちのルーツや共同体としての価値観がみな詰まっている。神話とは、いわば、自己存在の意義を確認する為のツールとして用意された物語なわけだ。

でも、そんな物語も所属する共同体が異なれば、そこには異なる物語的世界に住む人がいて、存在の根源について話し合うにも議論が平行線を辿る。ある宗教を信じている人が異なる宗教の世界観と相容れないのと似たようなもんだ。

だから、ひとは物語ではなく、だれもがゼロベースで理解できるであろう「概念」を用いてそれを皆が一定の筋道をたどれば理解できるように論理というものを用意して話を組み立てようとした。それがいわゆる哲学の歩みだ。

僕もちいちゃいころは、親の影響もあって、神様なんてものを本気で信じていた。しかし、ある問いに対する答えを考える際にトランプのジョーカーのように「神」というカードを利用可能にした瞬間、ゲームが勝負にならなくなるとおもい、このカードは自分の中で禁じ手にすることにした。

なので、素人なりに本を読んだり考えたりとほそぼそとやってきたわけだ。
前置きが長くなった。さて、欲望論である。

色々考えた結果、いまのところ暫定で以下のように考えている。

人の欲望には大きく3つのカテゴリがある。
1.生理的な欲望
 →いわゆる衣、食、住、性だね。一言で言えば「死にたくね!」ということ。
2.関係性の欲望
 →他者との関係を築きたいということ。もっと分かりやすく言えば、
  愛したい、愛されたい、必要とされたい、認められたいということ。
3.自己可能性追求の欲望
 →常に自分に何らかの可能性を感じていたいとか、
  自分の中の未知なるものを追い求めたいとか、
  他人に何言われようが関係がどうなろうが
  どーしてもやりたいという衝動みたいなイメージがこれ。
   自分で自分を承認できる様な状態になりたい!という欲望。

おそらく、欲望の展開パターンは1→3→2→3の順が王道なのかと思う。
まぁ1が最初に来るのはなんとなく了解してもらえると思う。
次が3なのは子供の育ちをみてるとなんとなくそーなのかなと思うから。
人って赤ちゃんのときは他の動物に比べても未熟児だからギャーギャー泣いて、俺を生かして&育ててくれ〜と自己主張する。そして、親を含め回りは赤ちゃんを大事に育てる。親にいろいろ構ってもらったり話しかけてもらったりしながら脳の発達とあわせて段々と意識というか自己が芽生えてくる。でこの自己って小さいときは親や周りの人間が自分の欲望を表現すればすぐにそれを叶えてくれるのを知っているんだけど、成長するに従って自分の欲望が願っても叶わなくなることを自然と学習していく。ネーネーと親に言っても構ってもらえなくなったり・・・。社会に生きる人間というのは素朴な自己可能性追求というか、自分がやりたいことを実現しようとしても他者の都合によって用意に欲望が挫折することを学ぶ。現実は世知辛いもんなわけですね〜。そんな世知辛さを忘れる代替行為がいわゆるロマンってやつだ。現実ではあり得ないと分かっていても、ロマンの世界では自分の欲望はすべからく叶う。そう、ひとは己のロマンの世界によって現実で挫折した己の欲望の傷を癒すわけだ。

だから、1→3と来るけど、この時の3はあえなく挫折し、次に社会における自分の価値、要は関係性の欲望実現である2へと矛先を変えるわけだ。ちなみに3に進む為にも2の欲望実現は必要になるというのが僕の基本的な考え。
何故かと言えば・・・。

・人は自己可能性を追求する生き物

・自己可能性追求の条件として「自由」を必要とする・そして自己可能性の追求の為にも、「他者からの承認」が必要になる・他者から自分の存在を認めてもらう、価値を認めてもらうところに自由の基盤のひとつがあるのかなーと今は思っていたりする。


・しかし、大概「他者からの承認(自由の条件)」は現実により粉砕される・よって大抵の場合、人は自己可能性を枠を縮める(可能性を諦める)・ところが「他者など知ったことか!」と自己可能性を追求する輩がたまにでる・追求の方向性が長い目で見て他者の利となる場合、そいつは革新者となる・一方で方向性が私利私欲的で他者の迷惑ですらある場合、そいつは犯罪者となる

とまぁ、粗荒だけど、こんなことをぼんやり考えているよということで、今はここまで。今日明日にかけて東京も雪だそうだ。ブログを書いている僕の部屋が急に冷え出してきた。寒すぎて残りの部分を書く気力がない〜。

2013年2月4日月曜日

【テーマ】志向性は何によって形成されるのか

身の回りにいませんか?特定の分野についてはちょっと逝っちゃっている人。悪い意味じゃなくてね、そのことをやっているとやっている本人は楽しくて楽しくてしょうがないって感じの領域を持っている人。昆虫採集だとか、読書だとか、場合によっては楽器を弾いたり、運動したり、コンピュータのプログラムを書いたり・・・。そして、そういう人の持っている情報量というのは普通の人から見るととてつもなく膨大で体系化されていたりする。そして、さらにそういう人ってそのテーマについて考え続けていたりする。だから一般人との差は開く一方・・・。人はそういう状況をさして突き抜けてるとか突出しているといったりもするよね。

僕が不思議だと思うのは、こういう人たちの志向性というのは何によって形成され、どのように強化されていったのだろう?ということ。

だって、多かれ少なかれ人には好きなことあるわけでしょ?でも突き抜けちゃった人とそうでない普通どまりの人の差って実際はあるわけで・・・そこ気になるじゃない。

脳科学者の茂木さんなんかは、志向性は自分の経験の蓄積から決まってくる、なんてことを仰っている。どういう志向性を自分の中に立ち上げられるかは、そこにどう記憶を活かすことができるかと関係してくるだそうだ。
だとすれば人の思考と経験と記憶の関係なんていうのも、もの凄く面白いよね。

なんなんだろうね、この差は?
でもこの差こそが、これからの時代の個人の競争力の源泉になっていくのではないかしら?そういう意味でも、色々と調べておきたいテーマなわけです。


ということで、考えたいことは本当尽きないね〜。



2013年2月3日日曜日

【テーマ】知的な資源の変化について

Twitterは書いた側から消えていく。Facebookもしかり。それがSNSの特徴・・・。
ということで、少し突き詰めて考えておきたいテーマを単文で残しておくことにしようと思った。誰に読んでもらいたいというわけでもなく、【テーマ】ヘッダがついているものは、僕が中長期的に読んだり聞いたりしたことを集約していきたいと考えているもの。

今回の「知的な資源の変化について」というテーマ。
いわゆるインターネットがでてきてWeb2.0なんていうことが言われ始め、Google、YouTube、Wikipediaが当たり前になり、そこへのアクセス手段もPCのみならずスマートフォンやタブレットPC、場合によってはお茶の間のテレビまでがこういうものにアクセスできるようになっている現在。人間の視覚、聴覚で捉えられる情報は殆どがデジタルデータ化でき、ネットワークを通して瞬時にそれを必要とする人に届けることが出来る状況下というのはちょっと歴史を振り返ってもあり得なかったような・・・。
iTunesなんかを覗いても、驚くほど沢山の情報にアクセスできることが分かっている。東大や京大、スタンフォードだとかその他有名な大学の講義などが無償で手元のモバイル機器で閲覧することができてしまう。

昔っておそらく知的な資源なんていうものは、ごく一部の特権的人しか物理的にもアクセスを許されなかったんじゃないかな?いわば知的資源は希少性を持っていた。それが、ここ10年くらいで多様で豊富に散在している状況に変わったんじゃないかな?

希少性を持っていた知的な情報が色んな人に行き届くインフラが整備されると世の中って何が誰にどう影響を及ぼし、及ぼされ変化していくんだろうね?

こういう話、インターネットがでてきて暫くしてからよく議論されていたことかもしれない。でも、その検証って誰かしたんだろうか?

もちろん、変化の最中なのかもしれないけど、ここ10年の変化や今後の変化の方向性を考えておくのも悪くないと思うんだ。

特に知的な資源がそこここに散在している今の状況下において、いわゆる知的情報の発生源の一つである大学なんていうのもその存在意義がおのずと変わらざるを得ない様な気がするわけね。これからあらゆるモノやコトがらにたいして「そもそも、これって何の為にあるんだっけ?やるんだっけ?」という問いが突きつけられてくるんだと思う。もちろん、そんなの何十年も前から突きつけられていた!なんて仰る方もいると思う。でもさ、ここから先って「そもそも」に答えた時、モノやコトがらが「そもそも」に応えられないと存在を許してもらえなくなるんじゃないかという気がするわけですよ。色んな意味で余裕がなくなってきているからかもしれないね。