2011年12月31日土曜日

現象学は<思考の原理>である/竹田青嗣

・・・事実学をやめよ。それは結局信念の対立と、
したがって権威づけられた思想どうしの対立に帰着するほかない。
本質学を開始せよ。そのことで、思想をフェアな関係のゲームとして開け。
これが現象学の方法の根本メッセージである・・・


「自分を深く知るために、他者とほんとうに関わるために哲学する
ユニークな思想家」これが竹田青嗣さん。

その竹田さんが、長年おっしゃっているのが、
”現象学は誤解されている”ということ。

そういう誤解を解きたい、現象学の意義を回復したい、
という問題意識で世に問われたのが1989年にでた『現象学入門』です。

その後、色々と発言をされてきた竹田さんですが、2003年に改めて
”現象学の根本的意義をまったく新しい形で描き出してみたい”
ということで作られたのがこの1冊です。

曰く、現象学のアプローチ(方法)というのは思考の原理なんだ、と。

社会人になってから読んだこの1冊。
かなり衝撃的な読後感でした。
これまで引っかかっていた疑問が氷解するような・・・、
そして、これは希望の哲学なんだ・・・
そんな印象を与える1冊だったことを覚えています。

ここでいう希望というのは、自身の希望ということのほかに
実生活に応用可能という意味でも希望という言葉を使っています。

僕自身、思考がかなり思弁的なところがありますが、
哲学者の思弁的な論説というのは流石に僕自身もうんざりしちゃいます。
参考にこそなれ、決して実生活にはなんの影響もあたえないな・・・。
そんな感じです。

でも竹田さんのこの本にはそういうところは全くありません。

「自分を深く知るために、他者とほんとうに関わるために哲学する
ユニークな思想家」・・・言い得て妙といったところでしょうか(笑)。



ちなみに私は現象学についての知見は殆どありません。
フッサールもメルロ・ポンティも大学時代にチョピット本を読んだくらい。
フッサールについては、書籍は持っていますが読むのは諦めています。
イデーンなどについては恐ろしく表現が難解で、何言ってるか意味不明です。

はっきり言ってこういう著者の哲学というのは、
本人自身が自分の直観で捉まえた感覚を十分にものにできておらず、
それを上手に表現できず難しくクドクドした説明になる傾向が多いです。
もしくは、私が馬鹿すぎて理解できないか・・・。

いずれにせよ、これまでの現象学などについては
ほとんどバックグラウンドがないため、僕には竹田さんの説く現象学を
的確に批判できるような知識はありません。
また、これまでの現象学論説に竹田さんを位置づけることも勿論できません。

ですが、本書で竹田さんが説く
現象学の魅力と破壊力は理解できるつもりです。



◆「確信成立の条件と構造」を解明する方法としての”還元”

竹田さんは現象学を思考の原理としてもっとも進んでいると言います。
なぜ、現象学が思考の原理としてもっとも進んでいるのか?

「現象学的還元」の方法が哲学的思考の原理として、
画期的だからだといいます。

では、還元って何なのでしょうか?

人は基本的に2つの視線を持っています。
ひとつが「実存的な(=主観的な)視線」で、もうひとつが「客観的な視線」です。
※実際、「客観的な視線」というのは、相手と自分の位置関係を
客観的に思い描くという意味で「想像的な視線」
という意味と殆ど変わりませんが・・・。

フッサールの言う還元・・・これを竹田さん的に解釈すると
還元とは世界の一切を意識経験として捉えること。客観的とされるものの見方を、
すべて私的なものの見方として置き戻すこと。
そして、現象学的還元のポイントは、「私の意識」に生じている
体験のありようから、他者にとっても必ず生じているはずだと考えられるもの、
すなわち共通項と考えられるものを抽出する作業が還元、ということになります。

要は、意識体験の「共通構造」(=本質構造)を取り出す・・・
これが還元ということですね。

ではなぜ、この還元という方法が大事なのか?
フッサール自身が説明できていない、と竹田さんは言います。
フッサール自身がまともに還元の意味や本質を伝えられなかったから
現象学は誤解されることになったんだ、と言わんばかり(笑)。

では、竹田さんはどう解釈するのか。


わたしの考えを言えば、「確信成立の条件と構造」を解明するため、
というのがその答えです。そして、このアイデアが現象学という方法の
最大のメルクマールなのです。この根本アイデアが現象学をして
近代哲学の根本問題であった「認識問題」を解明させ、
この根本アイデアが、現象学を哲学的思考のもっとも進んだ
原理論たらしめているといえる。



16世紀に起こった宗教改革とそこから百数十年にわたって
引き起こされた宗教戦争・・・。

おびただしいほどの血をながした根本的反省としての「認識問題」。
おびただしい世界像がでてきた時に、主観と客観は一致するのか?
ある世界観と別な世界観ではどちらが正しいのか?

こういう歴史的文脈の中で提示されてきた認識問題。
つまりは「信念対立」の問題といってもいい。
これはどうすれば解決できるのか。
どういう方法にて考えればいいのか。

歴史をひもとけば分かるように、16世紀の宗教における信念対立は
サイエンス(科学)という方法論のめざましい展開によって出来上がった
近代合理主義的世界像が、カトリックVSプロテスタントのの対決を
どちらも打ち倒すような感じに成っちゃいました。

しかし、歴史は繰り返す・・・。
認識問題としては解決しなかった信念対立。
解決しなかった問題は、必ず追いかけてくる・・・。
こんどは19世紀以降の資本主義VS社会主義のイデオロギー闘争として
再燃することになりましたね。

このような知的文脈の中で呼吸し、育ったのがフッサールというわけですね。


世の中ニャ、真理というものがあってそれを理解する・・・。
これじゃ、ダメだ〜と直観したフッサール。
世の中に在るものを正しく認識する・・・こういう見方を一旦、中止しよう。
Let's エポケー!!
客観的視線による認識という考え方を一度中止して、
世界を意識体験として方法的に捉え直す。
そして、その中から他人にも起きているであろう意識体験を
共通了解や共通構造として取り出す。

このような現象学的還元という方法を使って
認識問題にたいして新しい切り口を出してみせた・・・というのが
大雑把ではありますが竹田さんの解釈といったところでしょうか。

では、この現象学的還元によって認識問題はどのように捉えられるのでしょう。





◆現象学による「認識問題」の書き換え

箇条書きで、現象学が拓いた認識問題の新たな地平というものを
眺めてみましょう。
竹田さんがまとめた内容を、僕なりに抜粋すると・・・。


(1)「絶対的な真理」というものは存在しない。
神のような超越性の視点を括弧に入れてしまうと、我々が「真理」とか
「客観」と呼んでいるものは、万人が同じものとして認識=了解
するもののことである。人間の認識は、共通認識の成立しない領域を
構造的に含んでおり、そのため、「絶対的な真理」「絶対的な客観」は
成立しない。

(2)しかし逆に、われわれが「客観」や「真理」と呼ぶものは
まったくの無根拠であるとは言えない。そのような領域、つまり
共通認識、共通了解の成立する了解が必ず存在し、そこでは
科学、学問的知、精密な学といったものが成り立つ可能性が原理的に存在する。

(3)共通了解が成立しない領域は、大きくは宗教的世界像、
価値観に基礎づけられた世界観、美意識、倫理意識、習俗、社会システム、
文化の慣習的体系等々である。およそ、人間社会に置ける対立の源泉は
この領域の原理的な一致不可能性に由来する。

(4)しかし、この領域の基本構造が意識され、自覚されるなら、
そういった宗教、思想対立を克服する可能性の原理が現れる。
すなわちそれは、世界観、価値意識の「相互承認」という原理である。

(5)ここから、異なった世界観、価値観のあいだの衝突を克服する原理は
ただ一つであることが明確になる。すなわち「多数性」を相互に許容し合うこと。
これは、近代以降の「自由の相互承認」という理念を前提的根拠としている。




ここまでのお話が本書の第1部のお話です。
本書は全部で4部構成、2部以降も竹田現象学の射程を
あますところなくみせてくれます。


僕の思考をかなりインスパイヤーしてくれた1冊です。
現象学の一般論と言うよりは、竹田さんの思想として触れてみてください。





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