2011年4月16日土曜日

日本流/松岡正剛

フラジャイル・カントリーが生んだ
一途であって多様な方法、それが日本流


日本の文化について様々な角度から斬新な提言を続ける
セイゴオ先生こと松岡正剛さんの『日本流』を読み直しました。

この本については、以前、別のブログに感想を書きました。
しかし、そのブログはもう存在しませんので、
改めて読み直した感想をここに残しておこうと思った次第です。
※セイゴオ先生の別の本についての感想はこちら

改めて読み直して思った結論としては、多様で一途な日本を
「方法の観点」から浮き上がらせている傑作だということです。


以下に目次を掲載してありますが、ご覧頂ければお分かりのように
1章から7章まで「日本に対する見方」を
「が→を→も→で→へ→に→と→は」と助詞や前置詞を動かすことで、
もの凄く多様にしてくれています。
もちろん章それぞれに多様な日本を紹介してくれています。
そこから浮かび上がってくるのは、一途で多様な日本であり、
そのような日本を日本たらしめた方法の数々です。


なぜに一途で多様な方法がでてきたのか?
セイゴオ先生は本書の最後で、傷つきやすい国、つまりは
日本がフラジャイル・カントリーだからだ、といいます。


不安定であるからこそ、
一つものから異なる二つのものがでてくるという
デュアルスタンダードな日本というのが、
視点としては非常に刺激的でした。


それでは目次の紹介です。


目次

序章 日本が思う
歌を忘れたカナリヤ
第一章 日本を語る
多様で一途な国
第二章 日本も動く
職人とネットワーカー
第三章 日本で装う
仕組みと趣向がはずむ
第四章 日本へ移す
見立てとアナロジー
第五章 日本に祭る
おもかげの国・うつろいの国
第六章 日本と遊ぶ
わび・さび・あはせ
第七章 日本は歌う
間と型から流れてくる
図版出展・所蔵先一覧 
あとがき 
文庫本あとがき 
解説(田中優子) 
人名索引 



歌を忘れたカナリヤ

序章は日本の童謡から始まります。
ちなみに『かなりや』というのは、
日本で最初に唄われた童謡だそうです。
「唄を忘れたかなりやは〜、後ろの山に棄てましょか〜」
と、子供向けの唄とは思えない衝撃的な歌詞です。
YouTubeで聴けます


セイゴオ先生は言います。

さて、なぜ本書の冒頭にこんな話をしているかというと、
私は最近の日本が「歌を忘れたカナリヤ」に
なっているような気がするのです。
どんな歌を忘れたのかということ、
どんな歌を思い出すべきかということ、
なぜ忘れたと思っているかということは、
これからおいおい話します。
それはあとの話として、ともかくもわれわれは
ちょっとおかしくなっている。
このままでは後ろの山に捨てられても、
背戸の小藪に埋められてもしょうがない、
そういう気さえしかねません。
しかし、歌を忘れたカナリヤをあきらめて、
これを雄々しい鷹とか鷲にしようというのは
もっとおかしな話です。鳩ばかりでも困る。
むしろ、カナリヤならばカナリヤであることを
自身を知ったうえで、かつカナリヤとしての
多様な歌を唄いだすであるような気がするのです。



仕組みとしての日本流

このような問題意識のもと、1章から7章まで一途で多様な日本流、
つまりは方法としての日本が紹介されていきます。

主なキーワードだけ取り出してみても、

「見立て」「あわせ」「きそい」「そろい」
「稽古」「際(キワ)」「端(ハシ)」「案配」「間」
「コードとモード」「歌枕」「花鳥風月」「趣向」「当と分」
「擬死再生」「モドキ」「フリ」「わび」「さび」
※実際にはもっとあります。

と、沢山の視点や観点、流儀や方法が出てきます。

一つ一つのキーワード自体、凄く示唆に富むものなのですが、
さすがと思わせてくれるのが、それらの方法を
「しくみ」として捉えられていることです。
セイゴオ先生は言います。


仕組みという言葉は、なかなかいいものです。
大約すればシステムという意味ですが、
システムというよりはずっと柔らかい。
システムは体系ですが、仕組みは体系ではありません。
歌舞伎や日本建築の例で見たように、
日本の仕組みは全体と部分を切り分けない。
全体と部分はどこかでつながっている。さらには
全体を構成している要素と部分を構成している要素が
たいに寄り添い、あるいは連れ立って、しだいに中間的な
モジュールをつくっていくという特徴があります。
また、そういうふうに部分を工夫し、道具をつくっていく。
これは仕組みと仕事が分ちがたく結びついているからで、
日本においては仕組みと仕事が、二つで一対なのです。
この仕組みと仕事の一対の関係性が、
日本における全体と部分の関係を動かしている。
そこでは部分は全体の構成要素というよりも、
いわば「全体を変えようとしている部分」
というようなものなのです。


「超部分」などというキーワードも出てきますが、
一見説明しづらい日本の方法についての観点をシステムとして
捉え解説してくれる様は、ほんとうにさすがとしか言いようがありません。

その他、日本の宗教については時間を
「延長する」「促進する」「停止する」
という3つの観点で大まかに分かれていくことを指摘するなど、
改めて凄いな、と思わされる所が沢山出てきます。



フラジャイル・カントリー

7章の最後でセイゴオ先生は、なぜ日本は一途で多様なのかを
端的に答えています。

一言で言えば、日本がずっと不安定な国であるからです。


再読して、この言葉を目にしたときに、個人的に眼からウロコが落ちました。
分からなかった色々なことが、なんとなく腑に落ちた気がしました。

なぜなら、2011年の3月11日を経験したからです。


日本にはいつ地震がくるか分からないし、
いつ台風や大雪がくるか分からない。
日本史の大半は旱魃と飢饉の歴史です。
(途中略)
それくらい小さな国なのです。しかも資源にはかなり限界がある。
季節も変化する。これが不安定でなくて、なんでしょう。
こういう国では一事が万事です。もともと日本は危険な情報や動向を
感じやすい国土の上に成り立っているのです。
フラジャイル・カントリー(傷つきやすい国)、
これが日本の真の姿です。

セイゴオ先生は、上のように述べた上で、
こういう国には二つの工夫が生まれると言います。

一つが、やむを得ずあきらめるという観念を維持するという立場で、
もうひとつが、講や座や連などといった、小さなネットワークで
経済や文化を組み立てるという工夫だそうです。
不安定を宿命としてみて、小さめのモジュールを超部分とし、
その組み合わせで切り抜けていくという世界観。
昔の日本は色々と知恵を持っていたんでしょうか・・・。

しかし、明治維新以降、近代化を標榜して
宿命としての不安定を打破しようとしてきた、
とセイゴオ先生は言います。

小さい国にも関わらず「経済大国」を標榜したり
「生活大国」と言い出したりと、日本はこれまでとは「違った歌」を
唄い始め、そしてなにもかもがオカシクなってきた、と。

これを読んだときに、僕個人としては、3月11日というのは
あるいみトドメみたいなもんだったのかなぁ、と感じざるを得ませんでした。

あたらしい方向性はまだ見えません。
僕たちは一度セイゴオ先生の本を読み直し、
唄うべき歌をすこし考え直してみる必要があるのかもしれません。

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