2009年9月27日日曜日

日本人の宗教意識/湯浅泰雄

日本思想史の底辺に流れる日本人の信仰と文化の伝統的エートスを知りたくないか?
知りたい人はこの本をお読みなさい。


2009年の2Qにおいて、日本を知る上で一番収穫の多かった本。
それが今回紹介する湯浅泰雄さんの『日本人の宗教意識 習俗と信仰の底をながれるもの』です。

漠然と「日本の歴史的な歩みを把握できるようになりたいなー」と
大学時代からコツコツと本を読んできたつもりではいました。
しかし、こういう本に出会うと、いかに自分が読んで学んできた内容が
取るに足りないものだということを痛感させられます。

この本を読むのに掛かった2日間は、2度と会えない師匠の
貴重な講義を聞くかのような知的緊張感溢れる、非常に充実したものでした。
※ちなみに著者の湯浅さんはWikipediaによると2005年に80歳でお亡くなりになっているようです。

本書は1981年に出版された(著者56歳の時?)ものではありますが、
その内容は現代にも充分通じる原理的な内容になっているように感じられます。


では早速内容に入ってまいりましょう。

まずは目次から。

◆目次
Ⅰ 神話から宗教へ
 一 日本文化のかたち -中国文化との比較-
   1.中国にはなぜ神話がないのか
   2.日本の英雄伝説 -貴種流離談-
   3.文化の型はどうしてきまるか
   4.政治と文化
   5.道徳のあり方
   6.現代日本の思想的課題
 二 密教と日本文化
   1.神と仏
   2.密教による仏教の日本化
   3.畏れの信仰と山岳修行
   4.神秘体験の心理
   5.修行と日本文化の伝統
Ⅱ 宗教意識の諸相
 一 日本人の罪のとらえ方
   1.薄明の世界
   2.善悪の彼岸
   3.宗教儀礼の限界
   4.救済への道
 二 苦から無常と罪へ
   1.日本人の民族性について
   2.病苦と死苦
   3.自然霊と人間霊への畏怖
   4.苦しむ神
   5.人びとの苦しみを背負う神
   6.「苦」と「はかなさ」と「無常」
   7.罪の自己認識と無常の世界認識
 三 能の情念
   うらみ
   狂ひ・神・鬼
   色と形
   沈黙の声
   能を見るということ
   中世文化における神道と仏教
Ⅲ 中世宗教史をめぐって
 一 鎌倉仏教への思想史的視角
   1.鎌倉仏教の近代的解釈について
   2.鎌倉仏教界の大勢
   3.中世思想史の問題点
   4.哲学史と思想史
 二 法然と明恵
 三 親鸞の人間像
   1.『教行信証』をよんで
   2.近代の親鸞像
   3.師と弟子
   4.知性の人
   5.内省の人
 四 キリシタンと一向一揆における死と生
   1.秀吉の禁教令のねらい
   2.共同体意識
   3.死の問題
   4.生と死の間
   5.日本思想史における宗教と政治の関係
Ⅳ 近世から近代へ
 一 近世・近代思想氏の歴史心理学のために -啓蒙主義・民衆宗教・ナショナリズム-
   1.近代日本の知識人と民衆
   2.近世における知識人と民衆
   3.ナショナリズムと民衆信仰
   4.近世と近代の底を流れる深層心理
 二 明治青年の自我形成 -北村透谷における政治・文学・信仰-
   1.明治の近代化
   2.政治への幻滅
   3.政治と文学
   4.恋愛の門
   5.明治のキリスト教と日本的心性
   6.青い流星
 三 陽明学と西田哲学
   1.幕末維新の陽明学的精神
   2.西田の良心論の思想史的背景
   3.日本人の倫理観の伝統的特質

学術文庫版あとがき


以上、合計381ページからなります。

目次を見れば一目瞭然ですが、この本は古代日本から近代日本までの
日本人の宗教意識の変遷を鋭い視点でもって辿っていきます。
これってよっぽど博学じゃないと出来ないことですよね・・・。

ほんとうにこの本は学ぶ点が多く、歯ごたえのある1冊です。



◆学問的市民権を得ることが出来なかった日本の伝統思想

この本はちょっと面白い始まり方をします。

私は、これまで長いあいだ日本思想史の研究や講義を続けてきたが、
その感想を一言でいうと、「日本思想史」という研究分野は、学問としては
かなり中途半端なものであるという気持ちをぬぐいきれない。

よくよくいわれてみればそうだよなーというくだりが以下のところ。

「国史学」や「国文学」は立派な学問だが、「国哲学」などという名はきいたこともない。
「哲学」の代わりに「思想」というあいまいな言葉を使い、さらに「史」というシッポをくっつけて、
「日本思想史」という一定の学問分野らしき外観をつくろってはいるものの、
国史学や国文学にみられるような、厳密な文献学的実証という
基礎作業の場をふまえているわけではない。
専門研究者のための学問という見地からみたら、それだけでも失格といえるかもしれない。

序、ではこの理由が歴史的に解説されています。


神・儒・仏といった近代以前の伝統的思想は、
日本社会の近代化にとって有害無益のものとして排除され、
アカデミズムの世界に学問的市民権を得ることができなかったのである。
辛うじて、日本仏教はインド哲学者の副業として、また日本儒教は中国学者の副業として、
バラバラの形で二流の学問研究として存続をみとめられたにすぎなかった。
このため、近代日本の知識人インテリ層の基礎的教養は西洋近代思想におかれることになり、
日本の知識人の大多数は、その心性や感じ方において、
日本の文化的伝統から切り離された存在となった。

(中略)

日本の場合は近代化の速度が異常に急速であったため、思想状況のいちじるしい混乱をまねいた。
最大の混乱は、日本の伝統思想の研究がアカデミズムの世界から追い出された反面、
戦前の歴史が示すように、学会の外にある政治状況やジャーナリズムの側から
「日本思想」や「日本主義」がさかんに唱えられ、学者もその影響を免れることができず、
健全な学問としての日本思想の研究が育たなかったところにある。
正確な学問的基盤に立った日本の伝統的思想の研究は、諸先学の努力にもかかわらず、
戦前の八十年間、日本の社会に確たる根を下ろすことができなかったのである。


これは、日本にとって非常に残念なことですね。読んでいてため息が出ました。
半強制的に近代化(ソーシャルエンジニアリングの結果として)させられた国の
悲しさの一面を見せられた気がしました。
そういえば、昔、小室直樹さんも同じようなことを嘆いていましたっけ・・・また読み直さないとな。


ちなみに、著者の湯浅さんは、序においてこの後、いわば専門家のいない日本思想史の分野を
研究するためのご自身の方法論やよって立つ学問領域などをご紹介されています。



◆神話(英雄伝説)の心理学的解釈

この本の前半で非常に面白かったのが、目次の「3.文化の型はどうしてきまるか」です。
ここでは、エーリヒ・ノイマンという神話学者の説を参考に、
文化の型が決まっていくプロセスを紹介しています。


話をかいつまむと、神話においては一般的に母なるものが「大地」として表現され、
父なるものは「大空や天空」によって表現されます。
そして、母なるものからの独立の仕方いかんによって、人間と自然との関係の仕方が規定され、
父なるものからの独立の仕方いかんによって、倫理や法のあり方が規定されるというものです。

で、この理論を日本の古事記などに当てはめてみると、
母なるものからの独立が充分でないことがわかるそうです。
そして、このことは日本人のものの考え方に情緒的で
非合理な正確が強いことを意味するそうです。

そして、もう一方の父的なるものについてですが、
そもそも日本の神話には父的要素はあまりありません。
日本の最高神アマテラスは女性ですし・・・。
これは日本人の良さでもあり悪さでもあるのかもしれません。
日本には父的な要素がないため、ロゴスというか明確な理念や原理が
存在しないということを意味するわけですから・・・。



◆奈良仏教、平安仏教、鎌倉仏教

本書の「密教と日本文化」の章で面白かったのが、「2.密教による仏教の日本化」です。
ここでの指摘は目から鱗が落ちました。

一般的な仏教史の見方でいくと、奈良/平安仏教というのは人くくりにされ
鎌倉仏教と比較されることが多いのではないでしょうか。
私も通説どおりそのように認識していました。

しかし、本書ではむしろ奈良仏教と平安仏教の間に重要な非連続面が見出されるとあります。
いったいこれはどういうことなのでしょう。

本書を抜粋してみます。


奈良仏教は首都平城京の中心に設立された「都の仏教」であるのに対して、
平安仏教は比叡山や高野山を中心とした「山の仏教」である。
古代では、山は神々の住処として畏敬された一種の聖域であった。
この山岳信仰は、神話ないし古代神道の信仰習俗に起因する。
奈良時代には、国家の保護を受けた大寺院の仏教の外に、
国家権力の統制から脱した山林修行者の民衆的仏教の流れがあった。
その代表者は、後世修験道の開祖と目された伝説的人物役小角である。
最澄と空海は共にそういう山林修行の経験をもった人で、
彼らの哲学の背景には、山林修行の体験から得た考え方をよみとることができる。


さらに、湯浅さんはこういっています。


中国の密教は唐代で滅びてしまい、宋代の仏教は禅が主流になってゆく。
中国仏教はいわば「禅化」することによって「中国化」したのであるが、
日本仏教は「密教化」することによって「日本化」している。
その一つの理由は、密教特有のマンダラに端的に示されているように、
密教が仏教各派のなかでも多神教の最も代表的な形態を示していたからであろう。

以前、『神仏習合』を紹介した時にもありましたように、
古代宗教の神々国家鎮護としての仏教が密教により上手く結合できたということなんでしょうね。
そして、それは正統仏教から日本教としての仏教に様変わりしたことを表しているのかもしれません。

実際、最澄にいたっては、仏教で重要視されている戒律を誰の許可なく
グングン取っ払っていったわけですし・・・。

なんとなく、新興宗教が受け入れられる条件のようなものが判った気がします。


・・・・とまぁ、この本には日本人のエートスを解明するヒントが盛りだくさんなわけです。
あとは実際、本書を手にとってお確かめくださいな。






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