2009年6月29日月曜日

出家の覚悟/アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉

以前、人は死ぬから生きられる/茂木健一郎・南直哉についてエントリーを行いました。

これまで日本の仏教に対する私の印象は、
「所詮、日本の仏教は日本教の葬式仏教だろ?
 戒律を破棄して結婚している坊さんがなんで坊さんやれんだ?」
というものでした。
よって、南さんの仏教観について触れたときには非常に衝撃的でした。
こんなお坊さんが日本にもいたんだ!!と嬉しくなったわけです。
その考え方に激しく共感できたわけです。

南さんの本をもっと読みたいし、さらにはゴーダマ・シッダールタについても
体系的に勉強したいと思い、色々本をあさっているのですが、
今回読んだ『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』はストライクでしたねー。

この本は、仏教は心の科学だといって憚らないスリランカの比丘である
アルボムッレ・スマナサーラさんと恐山の院代でいらっしゃる南直哉さんとの対談集です。

この対談、非常に示唆に富んでいて、大いに共感できました。

そして、今回、この本を読んで確信しました。
日本の仏教はゴーダマ・シッダールタの教えを実践しているわけではないんだと。
日本の仏教は宗教というより職業なんだという思いを非常に強くしました。

日本では僧院に入って、サンガの中でまじめに志が続けば、
きちんとお坊さんの道をまっとうできる、というようなシステムがありません。
日本の仏教教団は、いわば住職教団なのです。
つまり、僧侶として立つには、一カ寺の住職にならないと
出来ないような仕組みになってしまっている。
                    ~南さんのお話より~

とか

「あなた、自分のやっていることが、仏教だとわかっているのか」というレベルの人間が、
目の前に、今まさにお坊さんになろうとしているのです。
これはとてもリアルな問題なのです。
                     ~南さんのお話より~

あまり引用していると気が滅入ってくるのでこの辺でやめましょう。
共感した内容に行きましょう。


スマナサーラさん曰く

だから仏教は、「信仰は駄目」なのです。

その理由が素晴らしい。

お釈迦様は理性にもとづかない信仰は、ばくちのようなものだと思っていたようです。
証拠があるものなら、信仰するという概念は要りません。
信じても信じなくても、真実はそのままなのです。
(中略)
仮に何か信仰したら、それをペンディング(留保)にしなくてはいけません。
理性を保って、常にデータが入り次第訂正する状態においておかなくてはいけないのです。
何かを堅く信じる、信仰するということは、自分で自分の首を吊るようなものです。

仏教とゴーダマ・シッダールタを見直しました。
本当の仏教、ゴーダマの教えは科学的だったんですね!!


凄い話はまだまだ続きます。

南さん曰く・・・

今おっしゃった「人間の論理などごみのようなもの」ということで私が非常に共感するのは、
仏教をヒューマニズムのように、「人間的な教え」だとして語ることは
間違いではないかと思うからです。
仏教が「人間の、人間による、人間のための教え」とは、全然質が違うと思うのですよ。
つまり、人間のあり方をトータルに見つめ直すには、人間とは別のところから見る力がないと、
無理だろうと思うのです。

さらに続きます。
これは結構痺れました。

だから、「ちょっときついかなあ」と思いましたが、
中学生くらいになればわかると思ったので、この前、中学の講演で
「夢を捨てろ」という話をしたのです。
みんな、呆然。壇上の講師が十五歳の子供に向かって、とにかく「夢を捨てろ」
というのですから、みんな凍りついてしまった。
ぼくは言ったのです。
「十五歳にもなれば、今からプロ野球選手になりたい、
歌手になりたいと思ってなれると本当に思っている人は、
この中にもそんなにはいないだろう」と言ったのです。
リアルに考えて、「自分が、本当にプロ野球の選手になれると思うか」と。
この夢にこだわっているうちに、自分がなすべきことを
スポイルして失っていく人間がいっぱいいるのです。
世の中には司法試験に挑戦すると称して、実際にはまともな勉強もせず、
親のすねをかじって遊んでいる輩が何人もいるわけです。
「ぼくの夢は」などと言って、夢をもつということは、逆に言えば
現実を”劣化”させてしまうことになるのです。
だからこそ、「大人になるということは、夢を捨てていくことだ」と言ったのです。
「夢を捨てていくことに耐えていくことが、大人になることなのだ」と言ったら、
水を打ったようになりましたね。
(中略)
夢をもつことはいい。しかし、大人になるということは、
夢と自分との距離をちゃんと測れなくてはいけないのです。

破壊的なコメントですよね。
中学生にはちょっと早いと思いますが、大学生くらいになったら
肝に銘じておきたい真実だと思います。
懐かしいなぁ・・・。
中学3年の時に大きく夢が破れたのをきっかけに、心に誓ったことを思い出します。
自分なんて大したことない。夢は寝てみるものだから、自分がやれることを
精一杯やればいいんだ。好奇心さえうしなわなければいい。
運命が自分を必要とすれば、何がしかの役割が与えられるはず。
必要とされなければ凡人として普通に生きてくたばろうと。

そんなことを心に誓いつつも、高校まではぼんやりとした将来の希望というか
夢っぽいものはありましたが、大学入ってからは全部なくなりました。
夢や志という言葉に踊らされる感覚が非常に邪魔くさくなったんですね。
んなもんなくても生きていけるからいいや、みたいな心境になりました。
なんかこう書くと世捨て人みたいですけど、決して世捨て人ではありませんよ。

さて、本書において一番共感した部分をご紹介しておしまいにしましょう。

スマナサーラさん曰く・・・

「生きる目的は何でしょうか」とよく聞かれますが、そう聞かれたら、
私ははっきりと「何の目的もありません」と答えるでしょう。
「何の目的もない」と言われると、とても大きな穴=空虚感ができるでしょう。
私の話は嫌だと思うかもしれません。けれども、それは事実です。
だったら、なぜそんなに私はがんばっているのでしょうか。
生きていると、いろいろと人が助かっているようだから、しょうがなく生きているのです。

生きることに意味を探すのは無意味なんですよ。
実存主義哲学でも「実存は本質に先立つ」というサルトルの言葉がありますが、
ほんとその通りとしか言いようがありませんよね。

だって、我々は知らないうちに(意識がない)生まれて、意識ができるようになったら
好き嫌い関係なしに自分だったわけなんですから。
なんで私はあなたじゃなくて私だったの?なんて聞いたところで誰もわからないわけです。

だから、自分探しなんてやっても見つからないんです。論理的に絶対に。
あなたがあなたである以上、あなたは自分なんて探せないんです。
自分が自分を探すなんて無理です。

私が思うに、残された方法はひとつだけ。
自分を認識するには自分以外の他者が必要です。
自分への認識は他社との関わりの中でしか培うことができません。

だったら、他人の役に立つように、他人に迷惑を掛けないように生きてみる。
この方法で生きるということは自分がその生き方を己の意志で選ぶということです。
意味はないけど他人との関わりの中でできるだけ役に立つようにいきてみよう。
これは自分の欲望であり願望でもあります。要は人のためといいつつ動機が不純なんです。

であればどうするか。
見返りなんか求めないことです。
これが私の生き方。

そういう意味で、ゴーダマの生き方や教えは今の私に恐ろしいほどの共感をもたらします。



2 件のコメント:

CON さんのコメント...

自分の代でも就職活動を始める子がチラホラ出てきました。自己分析って言葉がよく飛び交います。やっていることはすごく重要だと思うのですが、自分を安売りしているような響きであまり好きになれなかった。
自分探し…いいですね。

一人暮らしをはじめて早二年です。最近親と話す機会がたくさんあって「あー、この人俺のことわかってんなー」なんて思うことがタビタビです。自分のことを自分より正確に解られているかも知れないと考えると少し気持ちが悪いです(笑)
自分の記憶のない頃の自分もやっぱり僕の中に残っていて、少しうれしかったりしました。

ってなんか僕の日記みたいになっちゃいました。

ブログでのコメント返しありがとうございます。
このブログ、すごく夏目漱石の「こころ」を思い出します。シチュエーションは違えど”先生”に近い。僕の勝手なイメージですが(笑)
またちょくちょくお邪魔します。

Hidehiro Takeda さんのコメント...

コメントありがとうございます。
いつでもお邪魔してください(笑)