2009年6月7日日曜日

あらためて教養とは/村上陽一郎

教養という名の制約が本質的に人を自由にする



懐かしい先生に会ったような気分です。
もちろん直接教わったわけではありません。
私がよくやる私淑というアプローチで大学時代のある期間、
どっぷりはまったのが村上陽一郎先生です。
私の科学哲学にかんする読書はすべて村上陽一郎先生の著作から始まっています。
トーマス・クーンやP・K・ファイヤーベントなんかもこの方の著作からリンクして読み始めたっけな。

もっと若いと思っていましたが、生まれが1936年だそうなので、今年で73歳なんですね。
私が熱心に読み始めたのが大学2年くらいのときですから、かれこれ10年以上前です。
なんか感慨深いものがあります。

大学を卒業してからは、読書という点で、まったくかかわりを持たなかったわけですから、
ここ10年、私が文明史だとか科学哲学についてまったく思考していなかった証明でもあります。
あーあ、です。この怠け者、と自分を叱りたくなります。

昨日、新潮文庫で村上先生の本を見つけて、上記のような思い出に浸りつつ
わぁーーーっと2時間くらいで読んでしまいました。
お年は取られましたが、その静かで控えめな文体の奥にある鋭い視線は健在のようで、
読んでいて嬉しくなりました。

さて、この著作。
今の日本に失われたといわれている「教養」の本質について、
その意味を再確認させてくれる私にとってはいい本です。

私にとっては、と断ったのは、人によっては説教くさいなーと
感じる人がいるかもしれないからです。
若い人はこういうスタイルを嫌うかもしれません。

しかし、私にとってはかけがえの無い、襟を正したくなる一冊でした。

著者は説きます。

教養の原点、それはモラルにあり、と。
いかに幅広い知識や経験を身につけていても、人間としての「慎み」が欠けていては、
真の意味では教養人ではない、と。

ヨーロッパでリベラル・アーツとして生まれた教養教育が、やがて日本に伝わり
大正教養主義や戦後民主主義教育によって移り変わっていく過程をスケッチしながら、
失われた「教養」についてその意味を再考させてくれるのがこの本です。


リベラル・アーツが生まれた12世紀においては、学問の世界に入るためのパスポートとして
ラテン語の習得が必須でした。
その上で、「トリヴィウム」と「クワドリヴィウム」という2つのカテゴリーが用意されていたようです。
「トリヴィウム」とは文法と論理と修辞学の三科をあらわし、
「クワドリヴィウム」は天文学、算術、幾何学、音楽の四科をあらわします。
中世の大学では学問をするためにまずはこの7科目の習得が
リベラル・アーツとして必須だったわけです。

時は中世ですから、これら知の技法を使って何をしようとしたかといえば
①神の書いた書物としての『聖書』を正しく読み、解釈し、またその結果を人々に説く(三科の役割)
②神の書いたもう一つの書物である「自然」を正しく読み解く(四科の役割)
という2つの大目標があったわけです。

個人的に乱暴にまとめてしまうと、リベラル・アーツというものは
己の存在を正しく認識し、自分の進むべき方向を
自分でしっかりと定めることができるようになるための技法だったのではないでしょうか?


教養について、幅広い知識の獲得が重要であることを指摘する一方で、
村上先生はこんなふうに書いています。


私は最終的に教養というのは、そういう枠組みを自分の中にきちんと持つということと
つながる問題じゃないかと思ってるんです。


こんなふうにも。


自分の中にきちんとした規矩をもっていて、そこからはみだしたことはしないぞ
という生き方のできる人こそが、最も原理的な意味で教養のある人と言えるのではないか


一通りこの本を読み終えて、私は村上先生より次のような問いかけを頂戴したような気がしました。

◆これからの激動の時代、君は世界に向けて正対しなければならないときがくる。
 そのために君は今、何を学ぶべきなんだろうか。

◆人生は有限だから、場合によっては選択、決断を迫られるときが来る。
 その時のために君はこれから自分に対してどのような規範をつくっていくべきなのか。

◆後悔しない人生を生きるために、自分が決めた規範と自分の行動を絶えず照らし合わせているか。

◆君の行動が他人の自由を剥奪しないよう、十分注意しているか。


今回は、いつに無くパーソナルな読書でした。





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