2009年5月31日日曜日

「わかる」とはどういうことか/山鳥重

人は生まれながらに知ることを欲している  アリストテレス『形而上学』


ヒトという生き物は幼少の頃から親に対して「あれなぁに、これなぁに」と色々と聞いて回ります。
その瞳に写るものすべてが瑞々しく、すべてが好奇心の対象であるかのようです。

アリストテレスは『形而上学』の冒頭で、
そもそもヒトは知らずにはいられない生き物なんだ、という旨を上記の言葉で表現しました。

ところで、この「知る」という言葉ですが、これは言い換えれば「わかる」ということです。
ヒトは生まれながらにしてわかることを欲している、ともいえるでしょう。

では、いったいこの「わかる」というのはどういう状態なのでしょうか?
普段我々は、何かしらの事象について知りたい、わかりたいと思います。
ですが、この「わかる」という状態についてはあまり意識的に考えないのではないでしょうか。

今回ご紹介する『「わかる」とはどういうことか』は、そのような「わかる」という状態を脳科学的な観点から
平易に説明してくれている好著です。
私はこの本を読んで、これまでずーっとわからなかったある疑問にある程度の解答を得たような気がします。
それは、なぜヒトは知りたがるのか、好奇心を持つのか、という疑問です。

答えを言ってしまうと、それは生命の本質から要請されることだということです。
私たちを取り巻く物理世界は「エントロピー増大」の法則に支配されています。
「エントロピーの増大」とはエネルギーが均等になろうとする傾向を指し示します。
一箇所に溜められているエネルギーは必ず減少して均等化されるのが物理世界の法則です。

このような法則が支配している物理世界であるにもかかわらず、それに反旗を翻す存在があります。
それが私たちを含めた生物です。生物はエネルギーが拡散せず、逆に集まってくる不思議な存在です。

エントロピー増大の法則に支配された物理世界において、生物は必死にエントロピー減少に向けて
外界からエネルギーを取り入れ、必死にその内部で秩序を作り、それを維持しようとします
その活動が終わると塵に還る・・・これが生命体の本質です。

そう、生きるということの本質は自分の中に秩序を作るということだったんです。
だから私たち人間は、外界に接することで自分の中に入ってくる様々な情報を、
区別し、分類し、記憶し、秩序立ててしまわずにはいられないわけです。
「知りたい」「わかりたい」という衝動は、
「自分の中に秩序を作りたい」という生物学的な要請のかもしれません。

このことを教えてくれた本書と著者には感謝のしようがありません。


◆目次
はじめに ーわかる・わからない・でもわかる

第一章 「わかる」ための素材
1.絶えず心を満たしているもの
2.すべては知覚からはじまる
3.知覚を研ぎ澄ます
4.区別して、同定する
5.心はからっぽにならない

第二章 「わかる」ための手がかり
1.記号の役割とはなにか
2.言語の誕生
3.心理現象を共有する
4.記号の落とし穴
5.「わかる」の第一歩

第三章 「わかる」ための土台
1.記憶のいろいろ
2.意識に呼び出しやすい記憶
3.意識に上りにくい記憶
4.記憶がなければ「わからない」

第四章 「わかる」にもいろいろある
1.全体像が「わかる」
2.整理すると「わかる」
3.筋が通ると「わかる」
4.空間関係が「わかる」
5.仕組みが「わかる」
6.規則に合えば「わかる」

第五章 どんな時に「わかった」と思うのか
1.直感的に「わかる」
2.まとまることで「わかる」
3.ルールを発見することで「わかる」
4.置き換えることで「わかる」

第六章 「わかる」ためにはなにが必要か
1.「わかりたい」と思うのはなぜか
2.記憶と知識の網の目を作る
3.「わからない」ことに気づく
4.すべて一緒に意識に上げる
5.「わかった」ことは行為に移せる
6.「わかった」ことは応用できる

終章 より大きく深く「わかる」ために
1.小さな意味と大きな意味
2.浅い理解と深い理解
3.重ね合わせ的理解と発見的理解


◆2つある心の働き
心の働きには大きく二つの水準があるそうで、一つが感情、もうひとつが思考なんだそうです。
ここでいう感情とは、心の全体的な動きで、ある傾向を表すことを指しています。
なんとなく好き、なんとなく嫌いなどといった感じている本人自身にもはっきりしないことだとされています。

もう一方の思考は、心像という心理的な単位を縦に並べたり、横に並べたりして、
それらの間に関係を作り上げる働きを指すそうです。
要は頭の中で色々な情報の関係を編集する行為、これを思考というのでしょう。
ここで心像というキーワードが出てきましたが、これは心に思い浮かべることのできる
すべての現象、心理的なイメージのことです。
思考とは脳内にある心像の関係編集ということができるわけですが、
では、この心像はどうやって獲得されるのでしょうか?


◆心像を生み出すメカニズム
心像の獲得には、知覚という行為が関係しています。
人は知覚という五感を通して知りえた情報をもとに、心像を構築し、思考の土台を作ります。

人は知覚という行為を通して情報を取得するわけですが、この知覚という行為を
十分に機能させるには何が必要なのでしょうか?
知覚を機能させるには「注意の集中」が必要になります。
人間は注意を集中すると、その部分の知覚の力が強くなるそうです。
著者は言います。

注意は自然に備わった心の働きですが、自然にまかせているだけでは、
動物的な本能にまかせて揺れ動くだけになります

私が会社に入社したときに、先輩同士が、「あいつはまだ、人の顔してないな」
というセリフを吐くのを聞いたことがあります。

人の顔には、その人の性格が出ます。
今思えば、仕事をする上で集めなければならない情報のアンテナを持っていない
弛緩しきった猿の顔、という意味だったんでしょう。

人は生きるための注意を自然に備えていますが、それ以外の注意ができない人間は
分類としては人かもしれませんが、中身はサルと変わらないですもんね。

話をもどしますが、知覚という行為を促す重要な要素である注意。
この注意を駆り立てるもの、それは何なのでしょうか?
それは、心の働きの一つである感情や好奇心なんだそうです。

心というものは、好奇心により注意のありどころが決まり、注意によって行為とともに知覚が促され、
知覚によって心像が形成されることにより、
心像と心像の関係編集という思考ができるという仕組みのようです。


◆名前という名の心像安定装置

言われてみれば当たり前なのでしょうが、あらためて考えてみると面白い記述が以下のものです。

名前にはこの掴まえがたい記憶心像を掴まえる働きがあります。
それ自体では不安定ですが、名前によって心像が安定するのです。

あなたが経験した内容に正しい名前を与えられますか?正しい言葉を使っていますか?


言葉はもともと何か、おたがいの心の中に共通の記憶心像があって、
それを記号化するという過程を経て誕生したものです。
ある必然性が言葉を発明させたのです。ところが、言葉がどんどん増えだすと、
記号だけが覚えこまれ、その記号が立ち上がるきっかけとなったはずの
心像のほうが曖昧なまま、という事態が発生します。特に現代はその傾向が極端です。

SOA、Web2.0、SaaS、クラウドなどという中身があるのかないのかわからない、
挙句の果てにはベンダーによってそれぞれの定義が異なる言葉を使って馬鹿騒ぎをしているのが
私が属するITという業界です。最近、IT系の複数の企業の方とお話しをする機会をえましたが、
霧の中を模索しているような印象でした。

言葉の本質は任意の記号と一定の記憶心像の結びつきですから、
記号の相手方の記憶心像が曖昧なままだと、記号は音韻記憶として覚え込まれるだけになり、
意味のない状態が生じます。

山鳥先生、私の周りでは生じちゃってますよ。

そうか、これを書いててわかった!!
ダイアローグという名の対話がなぜ効果的なのか。
それは自分が持っている記憶心像と相手の記憶心像を対話という行為を通して
すり合わせていくことができるからなんですね、たぶん。

言葉は頭を整理する道具ですが、音だけを気分で使っていると、
頭のほうがそれに馴れてきて、聞き馴れぬ言葉を聞いても、「それ何?」と
問いかけなくなります。頭の中を記号だけが流れるようになります。
その記号の意味を問う、という自然な心の働きがなくなってしまいます。
心から好奇心が失われ、心になまけぐせがつきます。
最も危険な状態ですね。わかる、の原点は後にも先にも、
まず、言葉の正確な意味理解です。

なんか怖いですね。私の周りにもこういう中身のない言葉を使って
分かったつもりになっている輩が沢山います。

これは何なんでしょうね?
よくよく考えると個人的なもんだいというよりも、国柄の問題なのかなぁなんて妄想してしまいます。
そもそも昔は言葉は中国から入ってきたわけですし、明治以降はヨーロッパやアメリカから
新しい言葉や概念がどんどん輸入されてきたはずです。
本場ではある言葉がある行為やイメージとリンクされていたとしても、そういう行為やイメージが存在しない
島国である日本に渡ってきたときに、その言葉に対して記憶心像なんてつくれっこないです。
昔、評論家、柄谷行人さんが日本は島国であるがゆえに言葉が「文物」として入ってくる、見たいな事を
おっしゃっていましたが、まさにそんな感じですよね。


◆「わかる」 is not 「真実への接近」

わかったからといって、その都度、真実に近づいているわけではありません。
わからなかったからといって、その都度、真実から遠ざかっているわけでもありません。
「わかった!」からと言って、それが事実であるかどうかは、実はわからないのです。
わかったと感じるのです。あるいはわからないと感じるのです。

この指摘、ちょっと怖いですよね。
自分の中の独りよがりで「わかった」を繰り返しても、壮大な誤解だったりするわけですから。
よくよく、自分の「わかった」をいったんどこか他人の目につくところに晒して、
認識の妥当性を確認する必要がありそうです。


◆わかるためにするべきこと

わかるためにはそれなりの基礎的な知識が必要です。


わかるとは思考の結果です。思考には何かしらの心像が頭の中に
格納(記憶)されていなければいけません。
私たちは情報を記憶することを最近おろそかにしがちなのではないでしょうか?

やれネット時代には情報は検索すればいいので思考力があればいいんだ、
みたいな風潮がありますが唯の馬鹿ですよね。
そもそも検索するためのキーワードすら、頭に基本的な心像(情報)がないとどうしようもないのに・・・。
闇雲で無意味な事柄の暗記は確かに不要かもしれませんが、それでも最近の風潮は
暗記というものの重要さを軽視しすぎているような気がします。

個人的に本を読んでいる人といない人では、物事の理解度が圧倒的に違う印象をうけますが、
それも本を読んでいる人にはそれ何の基礎知識がストックされているからなんでしょうね。


◆わかるとはかわること

ちゃんとわかったかどうかは、一度実際に自分で行為に移してみないと
なかなかわからないものなのです。筆者の考えでは、わかるとは運動化出来ることです。
わかっていることは運動に変換出来ますが、わかっていないことは変換できません。

私の仕事に関係する教育工学でも同様の見解を採用しています。
学習とは行動変容であると。学んだ、わかった後とその前では行動が変わるはずです。

よく仕事の一場面で
「そんなことわかってますよ」と切れ気味のセリフを吐いている人がいますが、
実際は行動が伴ってないわけですから、わかってないんです。
ま、こういう文脈ではわかる、わかってない、以上の問題が隠されているほうが多いわけですが・・・。


◆最後に

われわれは何となく、困ったことがあれば誰かがなんとかしてくれるだろう、
わからないことがあれば誰かが教えてくれるだろうと、誰かを期待して生きています。
ですが、生きることは、自分の足で立ち、自分の足で歩くことです。
世界に立ち向かうためには、自分が使えるしっかりした海図を
自分で作ってゆかなければなりません。
そうやってはじめて大きい意味や深い意味を発見することができるようになるのです。

私は正直に告白すると好奇心を失った人間は、もはやサルだと思っています。
ニーチェの言う最後の人間だと思っています。好奇心のない人と戯れても
自分の人生、何もインスパイヤーされず時間の無駄だと思ってしまいます。
しかし、ニーチェのような差別や軽蔑はしません。それはそれでいいんじゃないかと。
テレビ番組に自分的に面白いもの、つまらないもの、ためになるもの、くだらないものがあって当然という感じで
別にこういう番組は無くしてしまわなければならないなんていう自分の考えを押し付けるような行為は嫌いです。
そういう意味で、私とは違う種別だと思って区別します。

私は出来る限りの時間をかけて自分の中の無知を未知に、未知を不可知にまで突き詰めたい。
ただそれだけです。




0 件のコメント: