2009年5月31日日曜日

「わかる」とはどういうことか/山鳥重

人は生まれながらに知ることを欲している  アリストテレス『形而上学』


ヒトという生き物は幼少の頃から親に対して「あれなぁに、これなぁに」と色々と聞いて回ります。
その瞳に写るものすべてが瑞々しく、すべてが好奇心の対象であるかのようです。

アリストテレスは『形而上学』の冒頭で、
そもそもヒトは知らずにはいられない生き物なんだ、という旨を上記の言葉で表現しました。

ところで、この「知る」という言葉ですが、これは言い換えれば「わかる」ということです。
ヒトは生まれながらにしてわかることを欲している、ともいえるでしょう。

では、いったいこの「わかる」というのはどういう状態なのでしょうか?
普段我々は、何かしらの事象について知りたい、わかりたいと思います。
ですが、この「わかる」という状態についてはあまり意識的に考えないのではないでしょうか。

今回ご紹介する『「わかる」とはどういうことか』は、そのような「わかる」という状態を脳科学的な観点から
平易に説明してくれている好著です。
私はこの本を読んで、これまでずーっとわからなかったある疑問にある程度の解答を得たような気がします。
それは、なぜヒトは知りたがるのか、好奇心を持つのか、という疑問です。

答えを言ってしまうと、それは生命の本質から要請されることだということです。
私たちを取り巻く物理世界は「エントロピー増大」の法則に支配されています。
「エントロピーの増大」とはエネルギーが均等になろうとする傾向を指し示します。
一箇所に溜められているエネルギーは必ず減少して均等化されるのが物理世界の法則です。

このような法則が支配している物理世界であるにもかかわらず、それに反旗を翻す存在があります。
それが私たちを含めた生物です。生物はエネルギーが拡散せず、逆に集まってくる不思議な存在です。

エントロピー増大の法則に支配された物理世界において、生物は必死にエントロピー減少に向けて
外界からエネルギーを取り入れ、必死にその内部で秩序を作り、それを維持しようとします
その活動が終わると塵に還る・・・これが生命体の本質です。

そう、生きるということの本質は自分の中に秩序を作るということだったんです。
だから私たち人間は、外界に接することで自分の中に入ってくる様々な情報を、
区別し、分類し、記憶し、秩序立ててしまわずにはいられないわけです。
「知りたい」「わかりたい」という衝動は、
「自分の中に秩序を作りたい」という生物学的な要請のかもしれません。

このことを教えてくれた本書と著者には感謝のしようがありません。


◆目次
はじめに ーわかる・わからない・でもわかる

第一章 「わかる」ための素材
1.絶えず心を満たしているもの
2.すべては知覚からはじまる
3.知覚を研ぎ澄ます
4.区別して、同定する
5.心はからっぽにならない

第二章 「わかる」ための手がかり
1.記号の役割とはなにか
2.言語の誕生
3.心理現象を共有する
4.記号の落とし穴
5.「わかる」の第一歩

第三章 「わかる」ための土台
1.記憶のいろいろ
2.意識に呼び出しやすい記憶
3.意識に上りにくい記憶
4.記憶がなければ「わからない」

第四章 「わかる」にもいろいろある
1.全体像が「わかる」
2.整理すると「わかる」
3.筋が通ると「わかる」
4.空間関係が「わかる」
5.仕組みが「わかる」
6.規則に合えば「わかる」

第五章 どんな時に「わかった」と思うのか
1.直感的に「わかる」
2.まとまることで「わかる」
3.ルールを発見することで「わかる」
4.置き換えることで「わかる」

第六章 「わかる」ためにはなにが必要か
1.「わかりたい」と思うのはなぜか
2.記憶と知識の網の目を作る
3.「わからない」ことに気づく
4.すべて一緒に意識に上げる
5.「わかった」ことは行為に移せる
6.「わかった」ことは応用できる

終章 より大きく深く「わかる」ために
1.小さな意味と大きな意味
2.浅い理解と深い理解
3.重ね合わせ的理解と発見的理解


◆2つある心の働き
心の働きには大きく二つの水準があるそうで、一つが感情、もうひとつが思考なんだそうです。
ここでいう感情とは、心の全体的な動きで、ある傾向を表すことを指しています。
なんとなく好き、なんとなく嫌いなどといった感じている本人自身にもはっきりしないことだとされています。

もう一方の思考は、心像という心理的な単位を縦に並べたり、横に並べたりして、
それらの間に関係を作り上げる働きを指すそうです。
要は頭の中で色々な情報の関係を編集する行為、これを思考というのでしょう。
ここで心像というキーワードが出てきましたが、これは心に思い浮かべることのできる
すべての現象、心理的なイメージのことです。
思考とは脳内にある心像の関係編集ということができるわけですが、
では、この心像はどうやって獲得されるのでしょうか?


◆心像を生み出すメカニズム
心像の獲得には、知覚という行為が関係しています。
人は知覚という五感を通して知りえた情報をもとに、心像を構築し、思考の土台を作ります。

人は知覚という行為を通して情報を取得するわけですが、この知覚という行為を
十分に機能させるには何が必要なのでしょうか?
知覚を機能させるには「注意の集中」が必要になります。
人間は注意を集中すると、その部分の知覚の力が強くなるそうです。
著者は言います。

注意は自然に備わった心の働きですが、自然にまかせているだけでは、
動物的な本能にまかせて揺れ動くだけになります

私が会社に入社したときに、先輩同士が、「あいつはまだ、人の顔してないな」
というセリフを吐くのを聞いたことがあります。

人の顔には、その人の性格が出ます。
今思えば、仕事をする上で集めなければならない情報のアンテナを持っていない
弛緩しきった猿の顔、という意味だったんでしょう。

人は生きるための注意を自然に備えていますが、それ以外の注意ができない人間は
分類としては人かもしれませんが、中身はサルと変わらないですもんね。

話をもどしますが、知覚という行為を促す重要な要素である注意。
この注意を駆り立てるもの、それは何なのでしょうか?
それは、心の働きの一つである感情や好奇心なんだそうです。

心というものは、好奇心により注意のありどころが決まり、注意によって行為とともに知覚が促され、
知覚によって心像が形成されることにより、
心像と心像の関係編集という思考ができるという仕組みのようです。


◆名前という名の心像安定装置

言われてみれば当たり前なのでしょうが、あらためて考えてみると面白い記述が以下のものです。

名前にはこの掴まえがたい記憶心像を掴まえる働きがあります。
それ自体では不安定ですが、名前によって心像が安定するのです。

あなたが経験した内容に正しい名前を与えられますか?正しい言葉を使っていますか?


言葉はもともと何か、おたがいの心の中に共通の記憶心像があって、
それを記号化するという過程を経て誕生したものです。
ある必然性が言葉を発明させたのです。ところが、言葉がどんどん増えだすと、
記号だけが覚えこまれ、その記号が立ち上がるきっかけとなったはずの
心像のほうが曖昧なまま、という事態が発生します。特に現代はその傾向が極端です。

SOA、Web2.0、SaaS、クラウドなどという中身があるのかないのかわからない、
挙句の果てにはベンダーによってそれぞれの定義が異なる言葉を使って馬鹿騒ぎをしているのが
私が属するITという業界です。最近、IT系の複数の企業の方とお話しをする機会をえましたが、
霧の中を模索しているような印象でした。

言葉の本質は任意の記号と一定の記憶心像の結びつきですから、
記号の相手方の記憶心像が曖昧なままだと、記号は音韻記憶として覚え込まれるだけになり、
意味のない状態が生じます。

山鳥先生、私の周りでは生じちゃってますよ。

そうか、これを書いててわかった!!
ダイアローグという名の対話がなぜ効果的なのか。
それは自分が持っている記憶心像と相手の記憶心像を対話という行為を通して
すり合わせていくことができるからなんですね、たぶん。

言葉は頭を整理する道具ですが、音だけを気分で使っていると、
頭のほうがそれに馴れてきて、聞き馴れぬ言葉を聞いても、「それ何?」と
問いかけなくなります。頭の中を記号だけが流れるようになります。
その記号の意味を問う、という自然な心の働きがなくなってしまいます。
心から好奇心が失われ、心になまけぐせがつきます。
最も危険な状態ですね。わかる、の原点は後にも先にも、
まず、言葉の正確な意味理解です。

なんか怖いですね。私の周りにもこういう中身のない言葉を使って
分かったつもりになっている輩が沢山います。

これは何なんでしょうね?
よくよく考えると個人的なもんだいというよりも、国柄の問題なのかなぁなんて妄想してしまいます。
そもそも昔は言葉は中国から入ってきたわけですし、明治以降はヨーロッパやアメリカから
新しい言葉や概念がどんどん輸入されてきたはずです。
本場ではある言葉がある行為やイメージとリンクされていたとしても、そういう行為やイメージが存在しない
島国である日本に渡ってきたときに、その言葉に対して記憶心像なんてつくれっこないです。
昔、評論家、柄谷行人さんが日本は島国であるがゆえに言葉が「文物」として入ってくる、見たいな事を
おっしゃっていましたが、まさにそんな感じですよね。


◆「わかる」 is not 「真実への接近」

わかったからといって、その都度、真実に近づいているわけではありません。
わからなかったからといって、その都度、真実から遠ざかっているわけでもありません。
「わかった!」からと言って、それが事実であるかどうかは、実はわからないのです。
わかったと感じるのです。あるいはわからないと感じるのです。

この指摘、ちょっと怖いですよね。
自分の中の独りよがりで「わかった」を繰り返しても、壮大な誤解だったりするわけですから。
よくよく、自分の「わかった」をいったんどこか他人の目につくところに晒して、
認識の妥当性を確認する必要がありそうです。


◆わかるためにするべきこと

わかるためにはそれなりの基礎的な知識が必要です。


わかるとは思考の結果です。思考には何かしらの心像が頭の中に
格納(記憶)されていなければいけません。
私たちは情報を記憶することを最近おろそかにしがちなのではないでしょうか?

やれネット時代には情報は検索すればいいので思考力があればいいんだ、
みたいな風潮がありますが唯の馬鹿ですよね。
そもそも検索するためのキーワードすら、頭に基本的な心像(情報)がないとどうしようもないのに・・・。
闇雲で無意味な事柄の暗記は確かに不要かもしれませんが、それでも最近の風潮は
暗記というものの重要さを軽視しすぎているような気がします。

個人的に本を読んでいる人といない人では、物事の理解度が圧倒的に違う印象をうけますが、
それも本を読んでいる人にはそれ何の基礎知識がストックされているからなんでしょうね。


◆わかるとはかわること

ちゃんとわかったかどうかは、一度実際に自分で行為に移してみないと
なかなかわからないものなのです。筆者の考えでは、わかるとは運動化出来ることです。
わかっていることは運動に変換出来ますが、わかっていないことは変換できません。

私の仕事に関係する教育工学でも同様の見解を採用しています。
学習とは行動変容であると。学んだ、わかった後とその前では行動が変わるはずです。

よく仕事の一場面で
「そんなことわかってますよ」と切れ気味のセリフを吐いている人がいますが、
実際は行動が伴ってないわけですから、わかってないんです。
ま、こういう文脈ではわかる、わかってない、以上の問題が隠されているほうが多いわけですが・・・。


◆最後に

われわれは何となく、困ったことがあれば誰かがなんとかしてくれるだろう、
わからないことがあれば誰かが教えてくれるだろうと、誰かを期待して生きています。
ですが、生きることは、自分の足で立ち、自分の足で歩くことです。
世界に立ち向かうためには、自分が使えるしっかりした海図を
自分で作ってゆかなければなりません。
そうやってはじめて大きい意味や深い意味を発見することができるようになるのです。

私は正直に告白すると好奇心を失った人間は、もはやサルだと思っています。
ニーチェの言う最後の人間だと思っています。好奇心のない人と戯れても
自分の人生、何もインスパイヤーされず時間の無駄だと思ってしまいます。
しかし、ニーチェのような差別や軽蔑はしません。それはそれでいいんじゃないかと。
テレビ番組に自分的に面白いもの、つまらないもの、ためになるもの、くだらないものがあって当然という感じで
別にこういう番組は無くしてしまわなければならないなんていう自分の考えを押し付けるような行為は嫌いです。
そういう意味で、私とは違う種別だと思って区別します。

私は出来る限りの時間をかけて自分の中の無知を未知に、未知を不可知にまで突き詰めたい。
ただそれだけです。




ブサイクだっていいじゃない

才能という名の爆弾 ~時として才能はあらゆるハンデを無効にする~

ちょっと前に世間を驚愕させたスーザン・ボイルさんのVTRをYouTubeでみました。

外見だけを見ると、どっかのオバサンが熱唱しているだけにすぎません。
インタビューの中でご本人がおっしゃってましたが、
今47歳で、夢は歌手になること。ちなみに、これまでキスすらしたことないんだとか・・・。
写真だけで判断すると、納得です。ちょっと凄みのある顔ですし・・・。

ですが、この人のキャラクターと歌声を聴くと、そのような外見的なハンデはすべて吹っ飛んでしまいます。
御恥ずかしながら、このVTRを見て反射的に「人って凄いな」と思わされました。
顔からは想像できないほどの美声です。
「このババァ、なに調子くれてんだ」くらいの敵意に溢れていた会場が、その歌声を聴くやすぐに空気が一変し、
最後は歓喜の拍手で終わります。ほんと、才能って凄いと思わざるをえない一瞬でした。

もう一つ、このVTRをみて思ったのが、愛嬌は人を救うんだな、ということです。
VTRを見てもらえばすぐに理解できますが、ボイルさんは非常に愛嬌のある方です。
あまり恵まれているとはいえないその容姿を補って余りあるユーモアというか、愛嬌があります。
仮にボイルさんが容姿に異常なコンプレックスをもって登場された場合、
私は痛々しくて見るに耐えなかったと思います。

ブサイクだからって、なんなの。そんなの自分の一側面でしかないわ。
私はこれで勝負するの。それが歌なのよ。

私たちはボイルさんから、この姿勢こそを学ぶ必要があるのではないでしょうか。


2009年5月30日土曜日

会社の中の色々なジンザイ

昨日でひとまずプロジェクトが完了した。プロジェクトの余熱をもとにおひとつつぶやきエントリーを紹介しよう。
ありきたりといえばそれまでだが、今日は組織の中のジンザイカテゴリーを、
私がこれまでに聞いたエライ人たちの会話をもとに、整理してみたい。

なーに本気の整理ではなく、お遊びだと思ってくれればいい。



上図は、いわゆるWill-Skillマトリクスと呼ばれる、ジンザイパターンを整理した図だ。
横軸が、ジンザイの持っている能力やスキルをあらわし、
縦軸がジンザイの持っているやる気や意志(ここではモチベーションとしている)をあらわす。
それぞれの評価軸を高/低で分け、計4つの象限をつくって、ジンザイをマッピングするのが一般的だ。
ただし、上図では、4つのパターンにパターンを一つ追加して5分類としている。
※よーく図を見たら、スキルの軸がどちらとも低になっているが、右側を高に読み替えていただきたい。


それでは、これまで聞いた会話をネタに、ジンザイを5パターンに分類してみよう。
なるたけ臨場感がでるよう、リアルなセリフを拾ってみた。
場合によって過激なセリフがあるかもしれないが、気にしないで欲しい。
人はそもそも区別する生き物なんだから。
あくまで以下は経営者がそれぞれのタイプをどう見ているのかを探っただけだ。

【人材】未完の大器?それとも・・・
・あいつには会社を支えられるようなジンザイに育って欲しいものだ
・あいつは面白いやつだ(筆者注:見込みがあるという意味)
・まだまだヒヨッコだな
・いい顔してるよね(筆者注:何かを成し遂げそうな意志を秘めた顔という意味。イケメン or Notではない)
・なかなか頼もしいじゃないか
・あと一皮むけられるといいんだけどな
・もうちょっとなんだよなー
・ここ2,3年が勝負だな。山を越えられなければ、あいつもそれまでだ
・やる気はいつも高いんだけどなー、成果がでないんだよね。

概ね、本音ベースでこういう言葉を与えられるジンザイは、それなりに将来性を見込まれていると思っていい。
あくまで見込まれているのであって、将来羽ばたけるかどうかは本人次第であることはいうまでもないが・・・。
組織に1割くらい生息しているといわれている。
新人は一応、カテゴリーに割り振られる。


【人財】スーパーマン or 縁の下の力持ち
・ほんと、あいつにはいつも助けてもらっている
・あいつは凄い、ほんと凄い
・あいつは別格だよ。普通、あのレベルまではなかなかいけないよ
・ああいうやつこそ、プロジェクトを成功させるには欠かせないんだ
・最後の最後はあいつに相談しろ。そうすれば絶対助けてくれるから
・新たしい組織を作るなら、絶対あいつは連れて行きたいな
・あいつといっしょに仕事する機会が合ったら、全部盗む気で仕事しろ
・あいつがいれば問題ない

ここでいう「あいつ」こそが企業をあるべき方向性に引っ張っていける人財と呼ばれるタイプである。
昔は組織に2割くらいはいたらしいが、あるコンサルタント曰く、最近の日本の大企業だと
こういう人たちは数パーセントになってきちゃったよね、だそうだ。



【人済】帰ってきた浦島太郎
・あいつも昔は優秀だったんだけどなー
・あいつ最近、時代の変化に取り残されてきたよな
・あいつ終わったな・・・
・あいつ、もうのびしろないよね?
・いつまで昔の成果にすがってんのかね?
・昔の雄姿を知っている立場からすると、最近は見るに耐えないな
・あいつじゃもうムリだよ
・昔はあんなやつじゃなかったけど、慢心してからは成長がとまったな
・現状維持が退歩の始まりだということに気づかないとああなるんだぞ

昔は人財だったが、自分を変化にさらすことを厭うようになってからは、
あららららと黄金のステージを転げ落ちていったタイプの人がこのカテゴリーに所属するようです。
驕れるもの久しからずや・・・。1割くらいは組織にいそうだね。


【人在】群集
・コメントなし

よほどのことがないとコメントされないカテゴリー。
「普段から一生懸命働いてくれてありがとう」といわれる反面、
「彼らを如何にして付加価値を作れるジンザイにするかが今後の課題だ」
なんて言われてしまう組織の4割弱をしめるのがこれらの人たち。
あまり経営者のコメント対象になっているのを見たことがない?
私の恩師曰く「会社に入って、人と同じことを一生懸命やってきた人たちが行き着く先がこれ」だそうだ。
いわゆるコモディティ化した社員といったところだろうか。
多分、このブログの筆者もこのカテゴリーにマッピングされるんじゃないかな。
自分がコモディティ扱いされるのはあまり嬉しくないので、最近は何とかしようとしてはいる。


【人罪】You Are Guilty!!
・あいつの下には人をつけるな。部下が腐るぞ。
・ほんと、どうしようもねーやつだよね。
・○○○に感謝だよな、ほんと(筆者注:ちょっとセリフが過激すぎるのでボカシをいれました)
・これ以上、危険すぎて書けない・・・。

好きなことしかしない割には、成果を挙げたことがなく、なにか指摘されると不平不満しか言わないタイプ。
存在自体が周りの士気に悪影響を与える。最悪のケースは懲戒免職になったりする場合も。
組織には2割程度生息しているといわれている、足をひっぱるジンザイだ。
人材も人在も、よほどのことがない限り人罪には転落しないそうだ。
普通の人は良心が痛んで、人罪までは足を踏み入れないらしい。

筆者も最近、似非鬱をやっている奴と接し、人間のなかで最も醜悪なものを見せ付けられ吐き気がした。
40近くにもなっているくせに、何かの報告書を書かせても、
2ちゃんねるの掃き溜め文章みたいな書類をつくる奴だった。

私が社長だったら、このカテゴリーのジンザイは即解雇する。
やる気があっても、職に就けないフリーターのような人たちを
採用したほうが世のため、組織のためだと思うからだ。


ま、これが私が耳にした経営者の人物評価である。
あなたの周りはどうだろう?

2009年5月28日木曜日

ムダの中に潜む豊かなコミュニケーション

世の中、百年に一度の不況といわれています。
個人的にはほんとに百年に一度といわれるほどの未曾有の不況なの?
と疑問を抱かずにはいられませんが、不況であることに変わりはないでしょう。

市場の状況を省み、おそらくどこの会社でも改善や効率化などが
トップダウンで下されているのでしょうね。

さて、今回のエントリーでは改善や効率化の
思わぬ落とし穴について考えてみたいと思います。

考えるきっかけとなったのはあるコンピュータシステムの導入でした。
コンピュータシステムの導入を行うくらいですから、もちろんその企業には
導入対象となる業務において何かしらの問題を抱えているわけです。

コンピュータシステムの導入を企画した人たちは、現状業務の問題点を分析し、
無駄な作業はやめたり、自動化できそうな作業はコンピュータシステムにより
自動化したりと、改善や効率化を追求すべく様々な検討を重ねシステム導入を行います。

きちんと計画されているシステム導入であれば、導入後の業務はそれなりに改善・効率化されます。
このプロジェクトでは、これまで10の作業プロセスを20時間(約2日)かけてこなしていたものが、
システムの導入により6つの作業プロセスまでスリム化することに成功し、
作業全体は3時間で終わるようになりました。

コンピュータシステムの導入という意味では、このプロジェクト、大成功です。
予算内でシステムも導入できたとのことでしたし。一見、バンザイです。

しかし、企業の経営活動といったより大きな視点で物事を見たときに、
改善されたはずの業務の前後の業務で色々な問題が発生してきました。
突き詰めると、それはコミュニケーションの問題だったんだそうです。

コンピュータシステムが導入され、人手の介入を必要としなくなったぶんだけ、
本来行うべき人間系のコミュニケーションがすくなくなってしまったんだとか。
コミュニケーションが少なくなった分、意思疎通が滞り、くだらない連絡ミスや不適切な指示、
フォー・ザ・チームの精神なんかが薄れてきてしまい、業務トータルでみて
大きく生産性がさがってしまったとのこと。

なんでも聞くところによると、システム導入前は、10プロセス20時間をかけて、無駄の多い仕事を行う中で、
新しい企画のネタや部門間の課題の共有・相談、人事情報のやり取りなどがリーダ間で行われていたそうです。
業務的には合理性にかけるプロセスだったわけですが、業務全体でみると、そのプロセスは
課題解決の場としても機能していたことが、場を失うことで理解できたんだそうです。
効率化により無駄な作業は確かに減ります。
一見馬鹿馬鹿しい作業が消滅するわけですから見かけ上は効率化成功です。
しかし、改善・効率化の計画を立てるときに、リーダーはよくよく慎重になる必要があります。
無駄な作業と思われているものの中に、社員がゆっくりモノを見たり、聞いたり、
考えたりする学びの場が隠されていたりはしないかと、注意深く観察しなければなりません。
私たちは無くしたモノやコトガラによくよく自覚的でなければならないのではないでしょうか。
すくなくとも、無くしたものに敏感である必要があります。
失われたものが大事なものであれば、どこかで埋め合わせをしなければいけません。
これができないと企業は効率化と共に徐々に徐々に組織レベルの問題解決力を失っていくはずです。
行き着くところは無駄のない高度に効率かれれた壮大なルーチンワークだけというのでは本末転倒でしょうから。

2009年5月26日火曜日

オカユ社員現る・・・

最近、身の回りを見渡してもそうですが、いたるところでサービス化が進み
物事がどんどんわかりやすくなっているような気がします。

親切なディレクション、親切なマニュアル、優しい指導・・・
あげればキリがありませんが我々を取り巻く世界はオモテナシに溢れています。
そのため、特に考えなくても何かの結果を受容できるようになっているのではないでしょうか。

インストラクターなどという因果な商売をやっていると、
色々なタイプのビジネスパーソンに出くわします。
つい最近も、こんな社員に出会いました。

私 「来月からのプロジェクトに先あたり、フィービリティとして○○というツールを使って
    XXシステムのプロトタイプを作ります。」

私 「○○というツールを使った開発の仕方はアーで、コーで・・・」

・・・と2日間にわたって設計のポイントや作業手順、ツールの使い方をレクチャーし、
資料やマニュアルを与えプロジェクトメンバーにプロトタイプを開発してもらいました。
ま、これで一通りの開発手順が身についたわけです。開発対象のプロトも簡単なものだったので、
大抵のメンバーがプロジェクトの本番を想定し色々と機能を確認したり、作業手順を整理してくれていました。

私 「後は皆さん、プロジェクトが始まったら、今回の内容を踏まえ、
   お客様と決めた仕様に基づいて開発してください。プロジェクトの成功を祈ってますよ。それでは!!」

と、プロジェクトルームを後にしました。
そんなこんなで数週間がたち、プロジェクトが動き出しました。
みんな問題なくやっているかなぁーと思い、プロジェクトルームに立ち寄ったところ
私のレクチャーに参加していた某社員がこんなことを言ってきました。

某社員 「あのー、すいません。」

私 「あー、○○さん、ご無沙汰していました。プロジェクトは問題なく進んでいますか?」

某社員 「あなたにレクチャーしてもらった内容と、お客様との要件定義で決めた仕様が異なるので
      作業を進められないんですけど・・・」

私 「ん?どういうことですか?レクチャーの内容はあくまで学習用のプロトタイプなので
   機能も簡易化されているわけですし、お客様との間で決めたものとは異なりますよね。
   でも基本的に画面のレイアウトも似ているので、学んだ内容を応用すれば開発は可能ですよ。」

某社員 「学んだ内容の応用の仕方については、レクチャーで説明がなかったじゃないですか。
      これから応用の仕方についてレクチャーしてくださいよ。」

私 「すいませんが、学んだ内容を応用して開発するのが○○さんの仕事ですよね?
   応用といっても画面の名前や項目名を読み替えれば
   基本的にプロト開発でやったこととあまり変わらないですよ。」

某社員 「じゃ、実際の画面に読み替えた上で、作り方をレクチャーしてくださいよ。」

私 「それって、○○さんに変わって私が仕事するのと同じじゃないですか。そりゃまずいですよ(笑)」

某社員 「お客様と決めたこの画面をベースにレクチャーはしてないじゃないですか。
      それじゃ私、わかりませんよ(プチ切れ気味)」

今月、こんな社員に二回も遭遇しました。
自分がいまこれからやろうとしていることを、手取り足取り、やり方まで含めて噛み砕いて教えてもらわないと
切れ気味になる社員なんて初めてです。

ぽっくん、オツムの消化器系が弱いから固形物はたべれないの・・・。
ぽっくんに食事を出したいのであれば噛まずに食べられる御粥にして・・・。

わたしはこういう社員をオカユ社員と名づけたいと思います。
オカユ社員、恐るべし。




2009年5月25日月曜日

仕事術をあさる前に・・・

前回のエントリーで少し触れましたが、今月はあるプロジェクトのメンバーを預かり
丸々1ヶ月かけて技術トレーニングと新しい開発基盤の企画・実現性検証を行っています。

かれこれ一緒に仕事を始めて3週間くらいがたちました。
これらのメンバーをよーく観察すると色々な行動パターンが見えてきて日々面白いなぁと思っています。

なかでも優秀なメンバーとそうでないメンバーの仕事への取り組み方が如実に違っていて非常に面白い。
優秀なメンバーとそうでないメンバーの大きな違いは何かというと、言葉にするとつまらないのですが
おおむね段取り力とでも呼べるような力があるかないかだと確信するようになりました。

◆優秀なメンバーの作業の仕方
・与えられた仕事を、自分の仕事として引き受け直す(責任転嫁しない)
・目的達成のために必ず計画を立てる
・作業実行に当たって必ず作業手順を洗い出し、レビューする
・作業遂行に必要なツールを準備する
・作業の途中で問題が起こると作業手順書にフィードバックを入れる
・作業において自分が知っているところと、知らないところ、
  調べて解決しそうな箇所と、聞いたほうが早そうな箇所を切り分ける
・作業が終わったら作業報告を行い、結果を資料にまとめる

◆その他、優秀なメンバーの日々の言動を見て気づいた点
・好奇心が旺盛
・わからないところは積極的に調べる、聴く
・会話においてボキャブラリーが豊富
・物事への取り組み方が前向き
・その他色々


一方で、優秀でないメンバーたちの仕事の仕方はというと・・・・

・不満を言いながら、いやいや仕事をやる(自分では決して引き受け直さない)
・無計画で行き当たりばったり
・自分がこれまでやってきたやり方を頑なに踏襲して作業に取り掛かる
・わからないところはウッチャッテおく、ほったらかす
・わからないところに囚われ過ぎ、どんどん時間が浪費していく
・困難な課題にぶつかるとあきらめる(基本的に調べたりはしない)
・課題には解答が用意されていると持っており、レビューすると答えを欲しがる
 →答えがないのを知るとガッカリしたり、ため息ついたり、たまに逆切れする
・作業が終わると、すぐ飲み会に行ってしまう
・自分は本当はやれば出来るやつなんだと自信がある(プチ被害者意識)
・本屋に行くと仕事術のコーナーが好き

私の仕事は、このチームの成果を最大化することです。
基本的に優秀なメンバーというのは私の力など頼りにしません。
本当に困ったときに数十分打ち合わせをして方向性を決めるだけで、あとは自分たちで解決してしまいます。
よって、1日の大半は前述した優秀でないメンバーとの格闘に費やされます。
これらの人とのやり取りは一筋縄ではありません。

「もっと真面目に仕事してくれ!!」なんて言ったところでどうしようもありません。
昔は上記のような思いがいつも胸に立ち込めてましたが、
最近ではあまりそういうことも思わなくなりました。

無能な人をして会社・事業に貢献たらしめることこそ我がミッション!!
と思えるようになったからです。

そんなこんなで格闘を続けてきましたが、つい先日、
メンバーの一人がブレークスルーを起こしました。
年齢は4○歳のおじ様ですが、ようやく目的達成のための
最適な作業手順を考える思考が身についたとのこと。
私との対話をとおして、「ああ、今やっている自分の作業って、ほんとはこうやってやれば良かったんだ!!」と
年甲斐もなく喜んでいました。
実をいうと、そのやり方自体は私が一番最初に教えていたやり方だったわけですが、本人がそれを
自分の方法として引き受ける、もしくは受け取り直すには
それなりの文脈と時間とタイミングが必要だったんです。

先週末の金曜。
帰り際に彼が私に言った一言が秀逸でした。

「仕事術なんて本屋に沢山ありますけど、なんてことはない。
あれは、仕事をうまくやれた人がそのやり方を手順として整理しただけなんですよね。
よくよく、自分の仕事について作業手順や方法を事前に考え、やってくなかで微調整することこそが
私の最良の仕事術になることにいまさらながら気づかされました、ははは。」

2009年5月24日日曜日

神仏習合/義江彰夫

なぜ日本には基層信仰としての神道と
普遍宗教としての仏教が神仏習合という形で共存できたのか。
「仏になろうとする神々」という謎をコードブレークしていく中で、
日本の基層思想が浮かび上がる・・・。


この一冊は、自分の頭で日本の歴史、
あるいは日本の思想史を理解したいと願う人の必読文献となるのではないでしょうか。
以前、山折哲雄さんの著書について感想を述べましたが、あの本で得た基本的な
日本思想史の見取り図を補強してくれるのが今回の一冊です。

読んでみて思うのですが、この手の本は我々日本人が無意識に受け取っている
日本的な考えや風習の根幹やその成り立ちを解明します。
読んでいて、なるほど、と楽しめる反面、自分のルーツを赤裸々にされるため
その事実に戦慄を覚える瞬間さえあります。まぁ、これも読書の愉悦なんでしょうけれど・・・。

無知とは目の前に広がる広大な世界の存在に気づいていない状態。
未知とは目の前に広がる広大な世界に気づき、恐れ・慄きながらも知らずにはいられない状態。


本書の詳しい紹介に入る前に、今月の私を取り巻く状況をまとめておこうと思います。
このブログは純粋な書評を目的にしていない関係上、本の内容以外に、
本を読んでいたときの私の状況や体調などもあわせて記しておきたいと思うからです。
このブログはインターネット上に公開しているので誰でも読めるわけですが、
読者として想定しているのは自分です。それも将来の自分、明日以降の自分です。

本と私とそれを取り巻く状況を簡単に編集してまとめておき、
後から振り返ったときに、なにかしらのヒントとなるものを残しておきたいと最近思うようになりました。
要は自分のモノの見方や考え方を自覚的にしておこうということです。

それでは、簡単にこの本を読んだ状況をまとめておきます。
2009年5月は珍しく仕事が忙しい月でした。
会社の中で新しいシステム開発基盤を作るプロジェクトが発足し、
11名のメンバーが私の所属する部署にやってきました。
私が所属している部署の開発ソリューションを使って、
新しいシステム開発基盤を作るためにこういう状況になったわけです。
今月はそのメンバー全員の技術力底上げを行うための月で、その担当に私が選ばれたというわけです。
選抜メンバーなので技術力は問題ないだろうと思いきや、結構大変だったりしました。
開発未経験のベテランエンジニアや鬱病のエンジニア・・・。
なんなんだこの会社は・・・と思いつつ11名に対してできる限りの指導をする毎日。
んでもって、定時後には自分の仕事が山積みですし・・・。
というわけで5月は今日まで1日も休みが取れない状況でした。

こんな状況になると、疲れがたまって本を読むにもその内容が頭に入ってこなくなります。
こういう経験は久しぶりです。ブログすら書く気がおきず、今月のエントリーがこれまで5本と少なかったのは
そういう事情があったからです。

面白かったのが、ようやく取れた土日だったので、ゆっくり本でも読もうと、ページを一枚一枚めくるのですが、
頭に何も入ってこない・・・。まるで脳が思考を拒否しているような感じです。
そんな状況でムリして昨日読み終えたのが今回の『神仏習合』だったわけです。
砂をかむような読書でした。

で、今日になってブログを書こうと、改めて読み直してみたら印象がまるで違う。
昨日はたっぷり寝たので、今朝は体調もよく気力も充実しています。
そんな状況で改めて本を読むと理解度が段違い、思考スピードも段違いなことに気づきました。
これは面白い経験でした。

そんなこんなで読み直した『神仏習合』。
さっそく目次からご紹介してまいりましょう。

◆目次

序 巫女の託宣 -誰が平将門に新皇位を授けたか

第一章 仏になろうとする神々
1.伊勢・多度大神の告白
2.神宮寺確立の過程
3.社会的背景を探る
4.律令国家の神社編成のゆきづまり

第二章 雑密から大乗密教へ
1.空海は何をもたらしたのか
2.仏教受容と密教による再編成
3.地方社会への広がり
4.王権側の論理と大寺院の対応

第三章 怨霊信仰の意味するもの
1.御霊会とは何か
2.道真の怨霊をめぐる説話
3.反王権のシンボルから王権守護神へ
4.怨霊信仰をもたらした社会的背景

第四章 ケガレ忌避観念と浄土信仰
1.王権神話が伝えるもの
2.ケガレ忌避観念の肥大化と物忌み
3.日本的浄土信仰=『往生要集』の論理
4.極楽往生を願う人びと

第五章 本地垂迹説と中世日本紀
1.仏教の論理に包摂・統合された神々
2.王権神話の読みかえと創造
3.王朝国家の危機のなかで

結 普遍宗教と基層信仰の関係をめぐって


◆物語のことはじめ

日本における神仏習合の意味を解き明かすに当たり、
著者は仏になろうとする神の告白から入ります。この物語展開は素晴らしい。
さながらコードブレーク型の推理小説のようです。

我は多度の神なり。吾れ久劫を経て、重き罪業をなし、神道の報いを受く。
いま冀ば永く神の身を離れんがために、三宝に帰依せんと欲す。

ここにでてくる多度の神は、古来、豊饒を約束する神として、伊勢、そして美濃・尾張の人々の
信仰の対象となっていた神です。そんな神様が奈良時代も後半の763年に、人にのりうつって
先のような託宣を下しました。冷静に考えると聞き捨てならないセリフですよね。
村や集落の守護神が、「もう神なんて堪忍してくれー、仏教に帰依したいよー
なんて言っているわけですから。ただ事ではありません。

神の切実な訴え、この背景を解明することが即ち日本の神仏習合を解明する鍵となります。
詳細は本書に譲るとして、以下、簡単に神仏習合解明の骨子をまとめていくことにします。

(1)まず、古代日本(まだ日本とは自覚されてはいなかった)の支配体制は
  中央の王権と地方豪族によって統治されていた。

(2)地方豪族はその配下の人々から収穫物を集め、皇祖神への捧げものという名目で
  中央に贈っていた。中央は祭りを催し、地方豪族の神社の代表を集め、
  皇祖神から与えられたという名目の稲穂を持ち帰ることで、地元の神々やその年の生産に
  新たな霊力が宿り、豊かな収穫が出来ると考えられていた。
  ※中央の王権を頂点とする分権体制の確立である

(3)中国・朝鮮経由で日本に儒教思想が入り、王権はみずからを大和の国すべてを支配し、所有する
  世俗的な王権であると徐々に認識をあらためる

(4)王権に、所有と支配の欲望と、そこから生まれる罪業意識が芽生え始める
   ※いったん手に入れた所有と支配の欲望はそう簡単に手放せるものではない

(5)法華経をはじめとする大乗仏教の諸経典に、王者を含めた在俗のものは、在俗者の代わりに
  出家して苦業を重ねて悟りを求める僧たちに供養し布施を行えば、
  悟りへの縁を結ぶことが出来ると説く仏教に個人救済を求めだす。

(6)王権と官僚貴族から、徐々に神々の名をかたって罪業の数々を告白し、神々を仏教に帰依させて
  菩薩にさせ、そのための伽藍、つまりは神宮寺(神社と寺のハイブリッド)を建てる方向に動き出す

(7)中央から始まった神々の仏教帰依は、やがて地方の権力者となった地方豪族にも伝播され、
  地方においても神々の仏教帰依と神宮寺の建立という方向に動き出す

(8)当初日本で普及していた仏教は南都六宗に代表される大乗仏教で、これは普遍性を追求したあまり
  一般の庶民には全く理解不能な教義となっていた。王権、官僚貴族、地方豪族、一般庶民すべてが理解でき、
  その欲望を否定せず、かつ悟りへつながる道を確立すべく、宗教的天才「空海」が
  大乗仏教にかわり密教を体系化し、国家の中枢に打ち立てた。

物凄く乱暴にまとめると、自分たちの民を従わせるためのロジックとして古代宗教を用い、
自分たちの救済ロジックとして普遍宗教である仏教を採用したというわけです。
統治するものとしての神のロジックと自己救済としての仏のロジックのハイブリッドの成果。
それこそが神仏習合を可能にした理由なのでしょう。

なかでも、自分たちの欲望を肯定してくれる密教を国家の中枢に組み込む。
んーーーん、宗教というのは政治に利用されるものなんですね。

ちょっと感慨深いものがありました。


本書は、上記の乱暴なまとめ以上に丁寧に歴史的、文化的、政治的背景を解きほぐしながら
論をすすめてくれています。是非ともつづきは本書をお読みになってください。




2009年5月15日金曜日

映画『グラン・トリノ』を観ました



老人は人生の終わらせ方に迷っていた。
青年は人生の始め方がわからずにいた・・・。
老人から青年に引き継がれたもの・・・
グラン・トリノに託されたもの・・・
それは勇気という名の偉大なる意志だったのではないか。
愛するにも、許すにも、生きていくにも勇気が必要なんだ。


ギリギリセーフです。
ずっと観たかった、俳優クリント・イーストウッドの引退作『グラン・トリノ』を
上映最終日の今日、ようやく観ることができました。

ほんと、イーストウッドは俳優としても監督としても超一流ですね。
本作を一言で言えば、月並みですが「素晴らしい」としか言いようがありません。

ネタばれありで、以下感想を書いていきます。

グラン・トリノとは、1972年から1976年にかけて生産されたフォードの車種です。
このフォードの組立工だった老人がクリント・イーストウッド演じるウォルト・コワルスキーで、
1950年代のアメリカの保守思想を体現したようなガンコものの元軍人です。
朝鮮戦争で幼い子供を殺したトラウマを抱え、妻に先立たれ、病に冒され、己の人生の終わらせ方を
考えあぐねています。

そんな爺さんの隣家にモン族(中国の少数民族)のタオという少年がいます。
この少年、心はやさしいのですが、生きる力がない。なんかボーっとしている。
そんなタオにはしっかりもののお姉さんがいて、いつもタオをかばってくれる。
タオには従兄弟がいて、これがまたチンピラのギャングなんですねー。

ある日、タオはこのチンピラ従兄弟に命令されて
ウォルト爺さんのグラン・トリノを盗みに行くわけですが、盗みは失敗してしまう。

途中色々な経緯がありますが、タオは償いとしてウォルト爺さんのコマ使いとして働くことに・・・。
そこでの交流をとおして、すこしずつタオ少年は爺さんと心を通わせ、生きる力を身につけていきます。
ウォルト爺さんの計らいで仕事にもつきますが、そんな矢先、グラン・トリノ強盗の失敗の腹いせとして
タオは馬鹿従兄弟たちから暴行を受けてしまい、また心を閉ざしてしまう。

ようやく芽生えた生きる力。それを踏みにじられたことに怒りを覚えたウォルト爺さんは、
単身、ギャング集団のアジトに乗り込みチンピラの一人をボコボコにしてしまう。

警告のつもりで行った行動だったわけですが、この報復にタオの自宅が銃弾の雨にさらされた挙句、
お姉さんがレイプされてしまう。
(映画とはいえ、気丈だった姉が放心状態で自宅に帰ってくるシーンは言葉が出なかった・・・。)

怒り狂うタオは、ウォルト爺さんに一緒に復讐しにいこうと訴えます。
全員殺してやると我を失うタオにウォルト爺さん戦場での体験を振り返ってこうつぶやく・・・。
「殺した相手が常に頭から離れない地獄をお前はわからない」

タオを息子のように大事に思い始めているウォルト爺さんは、自分と同じ苦しみをタオに味あわせたくない。
けれども、馬鹿ギャングを始末しない限りタオとその一家には安息の日々はやってこない。

憎悪の連鎖を断ち切るべく、ウォルト爺さんは一つの決心をする。
残された自分の命を犠牲にして、タオ一家を守ろうと、再度、単身ギャングのアジトに乗り込みます。

憎悪の連鎖を断ち切るための一世一代の大芝居を演じ、ウォルト爺さんはその生涯を終えます。
その命と引き換えに、ギャングは一人残らず、お縄にかかって刑務所で長期刑に・・・。
相手の命を奪うことなく、相手の自由を奪い、タオたちを守りました。

残された遺書にはこうかいてあった。
「グラン・トリノは友人であるタオに譲る」と。


まぁ、ザクッとこんなあらすじです。
この映画、考えれば考えるほど色々な解釈が出来る、奥の深い素晴らしい映画です。

人生には起伏がある。
仮に、君が何かを見失っているとすれば、傷つき弱り果てているとすれば、
この映画を観て思いっきり自分自身を抱きしめてあげるといい。
ひざを抱えてうつむき、静かに泣いてみるといい。
すこし落ち着いたら、今度は顔をあげる時だ。
君は生きるために必要な何かしらのメッセージ、
歯を食いしばってでも己の人生を行ききるという勇気をもらっているはずだから・・・。






2009年5月12日火曜日

夢十夜/夏目漱石

感性という名のナイフのみを己の武器とし、自分をすり減らしながら時代と格闘しつづけた人間が見た夢

文豪夏目漱石が格闘し続けたものとは一体何だったのでしょうか?
私が最近気になってしょうがなかったものが、この短編の中で暗示されているような気がしました。

夏目漱石といえば、『坊ちゃん』や『我輩は猫である』などが有名ですが、
はっきりいって、社会人になるまでは千円札に載っているオジサン
という程度の情報しか持っていませんでした。
文豪と聞いただけで、なんとなくとっつきがたいイメージが湧き、
どうしても漱石が書いた本を読む気にはなれませんでした。
大学時代に、社会人入学していた先輩から漱石全集を譲っていただいたにもかかわらずです。
※この全集は狭い我が家においておくことが出来なくなり、愚かにも売り払ってしまった・・・自決を促す。

それが、去年から会社の部長に進められて『三四郎』『それから』『門』を読んだのをきっかけに
漱石の魅力にとりつかれてしまったわけです。

そんなこんなで、漱石の著書を読んでいくと、なんといえばいいのでしょう・・・
何かに追われているというか、追い詰められているというか、格闘しているというか、
得体の知れないものが蠢いている様な感じがするんですね。

その正体が何か分からず、ずーっと考えていたわけですが、
今回紹介する『夢十夜』を読んで、なんとなくその正体が分かった気になりました。
いや、正解に言うと分かってはいませんね。
より得体の知れないものを強く感知できた、というのが正直なところだと思います。

そして、私の直観では、その正体は「知れば知るほど我々の足元が、これまで築いてきたものが崩れかねないもの」
なのではないかという気がしています。

ほんと、この小説、前回エントリーした中勘助の『銀の匙』に引けをとらないくらい美しい作品だと思うのですが、
それ以上に怖い作品です。決してホラーとかそういうわけではないのですが、
本能的にこの作品には恐怖を感じずにはいられません。不気味な影が忍び寄ってくる・・・。
そしてこの影こそが、実は見てみぬ振りをしていた、我々の等身大の姿だったのではないかと・・・。

本書の解説に、このような一説があります。

漱石の『夢十夜』は、そのように過去に金縛りにされ、記憶につきまとわれ人間の、
不自由そのものの、無力な実体をあらわにする。

セイゴオ先生が言うように、読書は楽しいだけではなく、危険な行為でもあることがいやというほど認識できる作品。
私にとっては、それがこの『夢十夜』でした。