2009年2月17日火曜日

不条理な英雄 ~シーシュポスとキリスト~

私にもしヒーローというものがいるのであれば、この二人をおいて他には考えられないという人物がいます。
それがシーシュポスとキリストです。

ここでいうシーシュポスとはアルベール・カミュがその著『シーシュポスの神話』で描いたシーシュポスであり、
キリストとは皆さんご存知の新約聖書にでてくるイエス・キリストです。

キリストなんて書くと誤解があるかもしれませんので、
少し補足をしておきますが、私はクリスチャンではありません。

母がクリスチャンで、高校生くらいまでは嫌々教会にも行ってたりしましたが、
どうしてもキリスト教のイエスに対する解釈が納得いかず、クリスチャンにはなれずじまいでした(笑)。

強欲な人間が寄ってたかって死刑にしておいて、挙句の果てには救世主だなんていっている宗教を
私はとてもじゃないけど信じる気にはなれません。
馬鹿も休み休み言え、と高校時代に牧師に言ったら本気で怒られました・・・。

三位一体だとか、救世主だとか、そういう像としてのイエスは信じませんが、
私は個人的にイエス・キリストという人物が好きです。
とくに、自分の死を前にして「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」というところが。
これは「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか?」という意味で、
絶望に打ちひしがれている様がとても人間らしくていとおしい。
しかし、最後は「神よ、彼らを御赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」といって死んでいく。
自分は救世主だと思ってやってきたはいいけど、洗礼ヨハネにも裏切られ、ユダにも裏切られ、
一番弟子のペテロにも裏切られ、挙句の果てには頼みの神には沈黙され絶望に打ちひしがれる男。
母からは「洗礼によってお前を身ごもったのよ。あなたは神の使いとして働くの」なんて言われて育ったろうに・・・。
洗礼ヨハネにも救世主と言われたのに、何だったんだろう俺の人生・・・まさに不条理。
しかし最後の最後で「すべてよし」と己の立場、人生を引き受けて旅立っていった男。
これこそ私の関心をそそるイエス・キリストなのです。

同じように、関心をそそるのがシーシュポスなのです。

私の思考に原点があるとすれば、まさにこの二人としか考えられません。

この二人には「不条理な英雄」の匂いがします。
もちろん、文学的にも哲学的にもシーシュポスとキリストに接点なんてないのかもしれません。
でもそれでいいのです。これは私の英雄なのですから。

神々がシーシュポスに課した刑罰は、無益で希望のない労働。
そう、休みなく岩を転がして、ある山の頂まで運びあげるというもの。
しかし、ひとたび山頂にまで達すると、岩はそれ自体の重さでいつも麓に転がり落ちてしまう・・・。

永遠に終わらない労働。報われることのない努力を目の前にして、皆さんはどのような行動をとるでしょうか。
シーシュポスはこの労働を決してやめません。やめれないんじゃなくて、やめないんです。
そして、一番重要なのが「やめないという判断」をする瞬間、そう山頂から麓に岩が転げ落ちた後、
麓まで戻っていくこの瞬間こそが重要なのです。この時、シューシポスは意識に目覚めているのです。
自分の悲惨なありさまを隅々まで知っているわけです。
下山の間、これまでの苦労、これからの苦労などをずーっと考えているわけです。
そして最後に、自分の状態を侮蔑します。

どれだけ苦しい試練を受けようとも、私は私を侮蔑する。私は自分に対して決して同情はしない。
私は私に起こりうる状態を全て認識することができる。そしてこう言おう。すべてよし、と。

人はいつも、繰り返し繰り返し、自分の重荷を見出します。しかしシーシュポスは、すべてよしと言います。
この言葉は、運命を人間のなすべき事柄へ、人間たちの間で解決すべき事柄へと変える力を持ちます。
シーシュポスは、神々の刑罰を否定し、岩を持ち上げること以上に高い次元の忠実さを我々に教えてくれる。

「頂上をめがける闘争」
そのために起こりうる全てを自分は引き受ける。
この覚悟だけで、私の心を満たすには十分です。

私にとってイエス・キリストも同じ。
これまで様々な奇跡で人を救ってあげたにもかかわらず、その見返りが死であるとは・・・。
呪詛の一つも吐きたくなるでしょう。しかしイエスも最後は「すべてよし」といって死んでいった。
自分に起こりうる死すらも、認識の射程にとらえ、それまで含めて
「すべて引き受けよう、わが宿命。ならば許してみせよう、みなの咎を。我は主イエス・キリストなり」

自分の運命を侮蔑しきったイエス・キリスト、そしてシーシュポス。
この精神こそが、報われぬ状況にあったとしても、どんな状況でも私の精神を奮い立たせるのだ。




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