2009年1月18日日曜日

松岡正剛先生の『花鳥風月の科学』を読んだ

松岡正剛先生の『花鳥風月の科学』を土日を使って読み直しました。

松岡正剛先生は、このブログにもリンクを張ってある
スーパー書評サイト『千夜千冊』の著者でもあります。

私にとっては千夜千冊の松岡さん、というよりは編集工学の松岡さんといった感じで、
大学時代からの憧れの人物でした。
初めて読んだ松岡先生の本は『知の編集工学』で、書籍上ではありますがかれこれ
10年以上のお付き合いになります。当時はまだ髭を生やしてはおらず、年の割りに若く見える
イケメン知識人で、膨大な情報を独自の編集(知的生産)メソッドで腑分けしていく様は
私を魅了してやみませんでした。
今では髭を生やされ、その風貌はまるで編集仙人です。
外見もその思考も、私の憧れです。

そんな松岡先生なのですが、その著書を今になって読み返すと、自分の理解力のなさ、
問題意識の狭さに驚きあきれ果てます。
なんでこんなにも大事なメッセージが書かれているのに、
昔の自分には響いていなかったんだろう、と。

ほんと、その著書を紐解けば、
いたるところに日本を読み解く重要なメッセージが散りばめられています。
思うに、松岡さんはその業績の割りに過小評価されすぎているのではないだろうかと思います。
人間国宝級ですよ、その著書の内容は!!私の思い過ごしであることを祈るばかりです。

さて、前置きが長くなりましたが、今回読み直したのが『花鳥風月の科学』という作品です。
この作品が初めて出版されたのは1994年の2月ですので、約15年前の作品。
松岡先生、齢50歳のときの作品です。
それにも増して驚きなのが、この作品のもとになっているのが1982年の連続講座だということです。
38歳にして、既に日本を読み解けるなんて、いったいどういう頭してんですか?と
驚きあきれ果ててしまいたくなります。私は今年31歳。
あと7年で日本を語りつくせるようにしろといわれても絶対無理です。

さぁ、それでは中身を見ていきましょう。
まずは目次から。

『花鳥風月の科学』の目次 

1章 山  2章 道  3章 神  4章 風  5章 鳥
6章 花  7章 仏  8章 時  9章 夢  10章 月

この本の狙いには、日本人の表現世界を維持していくために古来から開発してきた
マルチメディアシステムこそが「花鳥風月」であることを平易に説明することにあります。

このような説明をしようとする背景には、日本人である我々自身が、
日本の歴史文化がつくってきたイメージの発生現場が分からなくなっているという危機感があります。
容易に想像できることですが、日本人というのは自分たちのルーツが
分からなくなってきているがゆえに、海外に向けて卑屈になりすぎたり、居丈高になりすぎたり
するわけです。

日本人が日本を適切な言葉と論理で説明するための手がかりとして
この本では「花鳥風月」というキーワードを取り上げ、それを山、道、神、風、鳥、花、仏、時、夢、月の
10個のテーマで読み解いています。その読み解きっぷりはまさにセイゴオマジック。

読み終えれば、皆さんの日本という文化に対する見通し具合が圧倒的に高まることでしょう。

以下、簡単ではありますが、10個のテーマのうち、花鳥風月を知るベース(基本OS)となる
山、道、神、風、鳥の5つについてその概要とその関係を示して終わりにします。

まずは山です。
古代人にとって「山」は別世界であり、われわれのイメージの母体でした。
精神的な象徴として、古代人は山を畏怖していたわけです。イメージとしての山の
代表的なものがインドの須弥山です。我々にもなじみの深い仏壇なんかは、
この須弥山がもとになっています。イメージの出発は「山に至ろう」とするところから始まります。

次に道です。
「山に至ろう」とする歴史は、一方で「山に行かない」という選択肢もうみだします。
大きな対比が生れるわけです。山の向こう(There)と地上のここ(Here)。
あえて地上のここ(Here)において、山にかかわる母体を実現しようとする意志から
古代的国家というものが発芽します。これが国です。
ThereとHere、あっちとこっちという概念ができあがれば、こんどはその2点をつなぐ「道」という
概念がでてきます。山とここ、田と田。こうして作られた何本もの道はやがて交差していきます。
これが「辻」の発生です。辻はやがて「市」をうみ、市はつづいて「都」を作ります。

次に神です。
こうして道はすべての都市回路を作っていくわけですが、道には得体の知れぬ化け物や
疫神が伏せています。そのため、人々は各所の「境」で道切をし、虫送りをして
「道」あらたな力を結んでおく必要がでてきます。道の向こうに想定される浄化の力を持った
強いものを迎え入れたかったからです。それがサヘノカミ(道祖神)です。
これが日本における神の原型となります。日本の神は送り迎えを必要とする神でした。
自分ではあまり動いてくれないところが面白いですね。そんな神を動かす方法として
古代人が工夫したのが「依代」と「マレビト」です。依代は神のオトヅレを記録する装置です。
我々が正月によく使う、しめ縄飾りや松飾、お年玉も実は依代だったんですね。
いろんな依代にいろんな神様がやってきてくれた。だから八百万なんですね。
もう一方の「マレビト」とは、異人、異神、そして客神を指します。
外からやってきて、外に帰っていく神様。これがマレビトです。マレビトには二種類あるらしく
来訪神としてのマレビトと神を背負って村々を回る神人芸能者としてのマレビトです。
この「神が来て、帰る」という様式が各地の芸能の起源となっているそうです。

最後に風と鳥です。
古代人は目に見えない神の意向、情報を知るメディアとして風と鳥を重視していました。
風は、どこから来てどこに行くのかわかりません。しかし、何かを運んできてくれる。
春の香りだったり、季節の移り変わりだったり、目には見えませんが何かのおとづれを
想起させてくれる。そんなメディアが風なわけですから、
古代人はそこに神のおとづれを見たのでしょうね。
ThereからHereにやってきて目には見えない情報をもたらすメディア、それが風です。
鳥も同じで、「ここ」と「むこう」をつなぐ媒介者だったんです。

下手糞なアウトライン提示でしたが、
こういったものの見方、感じ方が花鳥風月のベースにあり、ひいてはそれらが
日本的なるものを作り出していったわけです。

私を含め、今の日本人は全般的に自分たちの身の回りの文化や、ものの見方、感じ方の
ルールを見失っているのではないでしょうか?
そんな皆さん、セイゴオ先生の著書を片手に「方法としての日本」を探しにいきませんか。

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