2009年11月26日木曜日

ブログ引越しのお知らせ

皆さん、こんばんわ。

最近twitterへの書き込みが増えたおかげで、
めっきりブログの更新を行わなくなって3ヶ月が経とうとしています。

この3ヶ月間のtwitterの書き込みを振り返ると、
さすがは「つぶやき」だけあって、その時その時の思考や思いつきの断片が
吐き出されているのがわかります。

ま、当たり前ですね。

twitterというサービスはほぼリアルタイムにフォロアーの意見がわかったり
非常にインタラクティブなメディアなので、やっていて非常に面白いものだということが自覚できました。
今後もお気に入りのサービスとして日々使っていくことは間違いないでしょう。

その一方で、ブログを書いていたときと比較すると
自分の読書の丁寧さというか、Web上での知的生産が(要はまともな思考)が
行われなくなったんじゃないかなぁというぼんやりとした不安も出てきました。

やはり、常に呟いてばかりではなく、ある程度考えて、
まとめて思考をブログに文字化することも大事なのではないかと
あらためて考えたわけです。

ということで、これまで停滞気味だったブログの更新も今後は活発にやっていこうと思います。

ブログ復活として、心機一転を計りたいという理由で、
標記のとおり、以下のサイトにブログを引越ししました。

ブログタイトルは同じですが、URLが変わりましたので、
引き続き私の駄文にお付き合いくださる奇特な方はお気に入りやRSSへの再登録をお願いいたします。

新しいブログサイトでは色々な機能がありますので、
自分なりに楽しみアレンジしながら記事の更新をしていこうかと思います。


それでは皆さん、今後ともよろしくお願いいたします。

2009年11月9日月曜日

映画『MOONWALKER』を観ました



さよなら、マイケル。
あなたにもう会えないなんて、とても悲しいよ・・・。

悲しかった。ただひたすら悲しかった。
アーティストの映画を観て悲しくて涙が出てきたのは、
これが最初で最後だろう。


前回、マイケルの「THIS IS IT」を観た時は、
齢50歳にして、その情熱とパフォーマンスぶりに驚愕させられた。
そして、映画を観終わった後に喪失感が襲ってきた。
でも、泣くことはなかった。


でも、今回は映画開始10分で涙ドバーーーだ。
VHS、DVDをどっちも購入し、腐るほど見た作品だが、
改めて巨大スクリーンでマイケルの幼き日の愛らしい歌声から
BADあたりの精悍な歌声までを聞いていたら、ほんとこの作品はマイケルへの
オマージュのような気がして、めちゃくちゃ寂しくなった。


これまでの超絶パフォーマンスに感謝しつつも、
二度とその勇士をステージで見ることができない寂しさに打ちのめされた。

そういう意味では、私にとってこの映画が本当の意味で「マイケルさようなら」の作品となりました。


でも、この映画観てよかった。
そこには若かりしマイケルの弾けんばかりの笑顔が沢山あるからだ。

おそらく、これからはこう考えるべきなのだろう。
マイケルがいなくなって寂しいが、
それでも彼が残してくれた映像や楽曲をとおして
我々はいつでも彼に会えるし、思い出すことができる。

岡本太郎が残した言葉の中で、私のとっておきをマイケルに捧げる。
改めて思う。天才はその存在だけで私のような凡人を励ます力を持つのだと。



ぼくはきみの心のかなに実在している。疑う必要はいっさいないさ。そうだろ。
                            
                                岡本太郎



2009年11月6日金曜日

映画『SAW6』を観ました


今年もあと2ヶ月あまりでお終いですね。
早いものです・・・。
今年見た映画を数えてみると、今のところ25本を映画館で鑑賞しています。

あと2ヶ月で終わりではありますが、観たい映画は沢山あります。
・スペル(「死霊のはらわた」に負けるなサムライミ!!)
・アバター(ジェームズキャメロンの傑作なるか?)
・2012(頑張れジョンキューザック)
・SOUL RED(なんじゃこりゃー、永遠なれ)
・ムーンウォーカー(ポォーーー、は永遠に)
・クリスマスキャロル(原作大好き!!)
・ニュームーン(ベタベタ純愛もたまにゃいい)
・宇宙戦艦大和/復活編(沖田館長とともに真っ二つのはず?)
・THE 4TH KIND(ミラかっちょええー!!)

予定通りいくと、今年は30本を越えそうですね。

さて、まくらはこの辺で御終いにして本題へ。
本日のエントリーは今年の鑑賞26本目となる『SAW6』についてです。

2004年に衝撃的に世に送り出されてやは5年・・・。
なんとまぁ・・・シリーズ化され、おまけに6作にもなるとは思いもしませんでした。
そんでもって、今回のエンディングを見る限りでは7作目もできそうですし。
どこまでいくのでしょう、このシリーズ!?


1作目は正真正銘の傑作サスペンス・ホラーだと思っているのですが、
回を重ねるごとに段々とホラーの部分がエスカレート。
そして、今回の6作目ははっきり言って
「ショッキング・スプラッター」といっても大げさではないような作品に仕上がっています。

いつもそうですが、凄いよ今回も。
オープニングから凄惨です(苦笑)。

もうね、はっきり言って猟奇殺人ですよコレは・・・。
徹底的に救いがない。ただ悲惨に人が死んでいく。

ちょっと考えてみた。

◆なぜジグソウは人を死に向き合わせるのか?それも残酷なやり方で?
◆なぜ人は残酷な映画(ホラーやスプラッター)を作るのか?そして鑑賞するのか?

思うに「残酷」というのは、人間の歴史が始まった時から続く、祝祭における歓喜なんじゃなかろうかと。
人ってそもそもの性質に残酷さを持っているものなんだと思います。
まぁ、普段は表に出すようなものじゃありませんけど。
しかし、一部の人間や権力者などの抑制のタガが外れた人間は
歴史に名を残すような残酷な刑というものを行ったりした事実があるわけですよね。

じゃ、なぜこんな性質があるんだろう?
この問いに対して真剣に考えると、私は「残酷」(の果ての死)というのは
「生の歓喜」の裏返しなんじゃないかと思うわけです。


哲学において言われてきた(特にニーチェ)ように、
人間という生き物は性欲、陶酔、残酷という要素において生の充実を知る傾向があります。

特に、残酷という要素には苦痛というものが付きまといます。
人は苦痛に打ちひしがれる人間に何を見るんでしょうか?
「生きている」ということの充実感を観るのではないか、というのが今のところの私の考えです。

残酷というのは、それによって我々を「生の自覚」に強制的に向き合わせる力を持つ。
だから、ジグソウは映画の中で真剣に命というものの重みを考えない奴らに
死を与えるし、クリエーターは漫然と生きている我々に残酷な作品を提示するのではないか?

SAWがシリーズとして6作も作られた理由は、私にはこれ以外考えられない。


あらら・・・映画の感想が一転して変な思想表明みたいになっちゃったぞ。
まぁ、いいか。
ということで、失礼します。



2009年11月1日日曜日

映画『THIS IS IT』を観ました


今日は11月1日ということで映画の日でした。
映画の日は1作1000円で作品が鑑賞できるということで、
奥さんと楽しみにしていたマイケル・ジャクソン主演のライブ映画『THIS IS IT』を観てきました。

この映画は、6月25日に亡くなったマイケル・ジャクソンがロンドンで実施する予定だったコンサート
「THIS IS IT」のリハーサル模様と舞台裏を111分にわたって描いたものです。


私は鑑賞するまで、てっきりマイケルへのレクイエムということで
人生の回想シーン的な映画なのかと思っていました。

でも違いました。

この映画には、史上最強のエンターテイナーと言われるマイケル・ジャクソンが
史上最強である所以が徹底的に描かれています。
もう凄い、というか言葉を失います。
全ては音楽のため。お客様に最高の非日常を体験してもらうため。
重要なメッセージを伝えるため。

目的実現に向けて一切の妥協を許さず、
ライブチームのメンバーと何百時間にも及ぶ猛特訓の風景が描写されていました。

たかがリハーサル、されどリハーサル。
マイケルのリハーサルへの取り組みは、はっきり言ってライブそのものです。
あまりの完成度の高さに、リハーサルをチェックしている他のメンバーが徐々にエキサイトして
吠え出してしまうくらい凄い。

この映画。はっきりいって実現されなかった幻のロンドンコンサートそのもの。
そして、そのコンサートの最前列にいるのが鑑賞者の我々という映画史上最強の贅沢品です。
これは断言できます。

プライベートでは、裁判やらなにやらでゴタゴタしていましたが、
やはりマイケルはステージがよく似合う。
そこにいたのは紛れもない史上最強の努力する天才エンターテイナーでした。

真の天才とは周りのメンバーの才能を限界まで引き出すことができる、
周りのメンバーに勇気を与えることができる存在なんだと痛感しました。

マイケル・ジャクソン・・・。
その姿勢に勇気をもらい、感涙しました。それと同時に、映画が終わって深い喪失感を味わいました。
嗚呼、こんな人間、もう二度とこの世には現れないだろうな・・・。

マイケル、ほんとうにありがとう。
あなたの存在は永遠だよ。
そして、おやすみなさい。
あなたは50歳でこの世を去りましたが、
その生き方を省みれば普通の人の倍は真剣に生きたはず。
本当にお疲れ様。

P.S 
マイケルの息子・娘さんたち
あなたの父親は世界一かっこよく素晴らしい父親だよ。
胸を張って生きていってください。






2009年10月31日土曜日

閑古鳥が鳴く・・・

憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥 by 芭蕉

みなさんこんばんわ。
9月からめっきり更新が減り、カッコウ(閑古鳥)が鳴き始めたこのブログですが、
著者は相変わらず元気であります。

先週の水曜から鹿児島に仕事で出張しており、本日帰ってきました。

9月から、4年6ヶ月お世話になった常駐先での業務を整理し、
もともとの所属先である自社に10月から戻ってきた関係上、仕事でバタバタしています。
色々なミッションをもらい、その一環でアカデミックな研究というか勉強をしたり、
フィールドワークなんかやっているせいで、めっきりブログの更新が減った次第です。
さらに追い討ちをかけるように、読書中は気になることをリアルタイムにTwitterに書き込むクセが付き、
ますますブログを書かなくなりました。

読書感想や仕事、人生など生活モロモロのことを、細かく呟いているので、
自分の中で改めてブログを更新する気が起きません。

ここ2ヶ月くらい読書する量が滅茶苦茶ふえ、定期的にブログにまとめる時間をとるのも
しんどくなってますし・・・。

ですので、これからもブログの更新は減る一方かもしれませんが、お許しを!!

このブログ著者の近況が気になる方は、Twitterのアカウントをフォローしてください。
こちらには頻繁に顔を出しています。

◆Twitterアカウント



2009年10月23日金曜日

映画『ファイナル・デッドサーキット 3D』を観ました

ご無沙汰しておりました。
久しぶりのブログ更新です。

色々とありまして、ブログ更新をサボりまくっておりました。
職場が変わったり、新職場での立ち位置を改めて考えたり、
新しい仕掛けを考えたりと、この5年を振り返りながら細々と生活しておったわけです。

この1ヶ月近くで、色々と変化がありました。
仕事上の変化は上にあげたとおりですが、そのほか
奥さんと一緒にテニスを始めたり、教育工学の分野にどっぷり浸ってみたり、
アジアの方々への技術支援ということで、
東南アジアに2週間出かけていって英語で講義することになったり・・・。

まー、色々あります。


さて、今日はお馬鹿映画鑑賞のご報告です。
その名も『ファイナル・デッドサーキット 3D』です。

皆さんご存知ですか、この映画?
実はこの作品、FINAL DISTINATIONというシリーズの4作目なんです。
4作目にして3D化!!

感想は一言、馬鹿くさいが面白い!!

このシリーズを知らない方のために簡単にシリーズ全体のストーリーをご紹介しておきましょう。
このシリーズはテーマが全て共通しています。

予知夢により一旦は死を免れた若者たちが、
運命という名の死神に追いかけられ全滅していくという話。

もうね、すごいよこれ。
目の前に臓物が飛んできたり、首がとんできたりと・・・やめましょうね、こんな話。



1~4まで全部テーマは同じです。
1~4の違いは死を免れる場所だけです、はっきりいって・・・。

1作目:飛行機
2作目:高速道路
3作目:遊園地のジェットコースター
4作目:サーキット

はっきり言えばマンネリ作品なんですが、
一つ特徴的なのは、シリーズが進むにつれ
死に方が激しくなっていくということ(爆)。

ついに今回は3D化され、死体や死へのトラップがスクリーンからはみ出ることになりました・・・。


2009年9月27日日曜日

日本人の宗教意識/湯浅泰雄

日本思想史の底辺に流れる日本人の信仰と文化の伝統的エートスを知りたくないか?
知りたい人はこの本をお読みなさい。


2009年の2Qにおいて、日本を知る上で一番収穫の多かった本。
それが今回紹介する湯浅泰雄さんの『日本人の宗教意識 習俗と信仰の底をながれるもの』です。

漠然と「日本の歴史的な歩みを把握できるようになりたいなー」と
大学時代からコツコツと本を読んできたつもりではいました。
しかし、こういう本に出会うと、いかに自分が読んで学んできた内容が
取るに足りないものだということを痛感させられます。

この本を読むのに掛かった2日間は、2度と会えない師匠の
貴重な講義を聞くかのような知的緊張感溢れる、非常に充実したものでした。
※ちなみに著者の湯浅さんはWikipediaによると2005年に80歳でお亡くなりになっているようです。

本書は1981年に出版された(著者56歳の時?)ものではありますが、
その内容は現代にも充分通じる原理的な内容になっているように感じられます。


では早速内容に入ってまいりましょう。

まずは目次から。

◆目次
Ⅰ 神話から宗教へ
 一 日本文化のかたち -中国文化との比較-
   1.中国にはなぜ神話がないのか
   2.日本の英雄伝説 -貴種流離談-
   3.文化の型はどうしてきまるか
   4.政治と文化
   5.道徳のあり方
   6.現代日本の思想的課題
 二 密教と日本文化
   1.神と仏
   2.密教による仏教の日本化
   3.畏れの信仰と山岳修行
   4.神秘体験の心理
   5.修行と日本文化の伝統
Ⅱ 宗教意識の諸相
 一 日本人の罪のとらえ方
   1.薄明の世界
   2.善悪の彼岸
   3.宗教儀礼の限界
   4.救済への道
 二 苦から無常と罪へ
   1.日本人の民族性について
   2.病苦と死苦
   3.自然霊と人間霊への畏怖
   4.苦しむ神
   5.人びとの苦しみを背負う神
   6.「苦」と「はかなさ」と「無常」
   7.罪の自己認識と無常の世界認識
 三 能の情念
   うらみ
   狂ひ・神・鬼
   色と形
   沈黙の声
   能を見るということ
   中世文化における神道と仏教
Ⅲ 中世宗教史をめぐって
 一 鎌倉仏教への思想史的視角
   1.鎌倉仏教の近代的解釈について
   2.鎌倉仏教界の大勢
   3.中世思想史の問題点
   4.哲学史と思想史
 二 法然と明恵
 三 親鸞の人間像
   1.『教行信証』をよんで
   2.近代の親鸞像
   3.師と弟子
   4.知性の人
   5.内省の人
 四 キリシタンと一向一揆における死と生
   1.秀吉の禁教令のねらい
   2.共同体意識
   3.死の問題
   4.生と死の間
   5.日本思想史における宗教と政治の関係
Ⅳ 近世から近代へ
 一 近世・近代思想氏の歴史心理学のために -啓蒙主義・民衆宗教・ナショナリズム-
   1.近代日本の知識人と民衆
   2.近世における知識人と民衆
   3.ナショナリズムと民衆信仰
   4.近世と近代の底を流れる深層心理
 二 明治青年の自我形成 -北村透谷における政治・文学・信仰-
   1.明治の近代化
   2.政治への幻滅
   3.政治と文学
   4.恋愛の門
   5.明治のキリスト教と日本的心性
   6.青い流星
 三 陽明学と西田哲学
   1.幕末維新の陽明学的精神
   2.西田の良心論の思想史的背景
   3.日本人の倫理観の伝統的特質

学術文庫版あとがき


以上、合計381ページからなります。

目次を見れば一目瞭然ですが、この本は古代日本から近代日本までの
日本人の宗教意識の変遷を鋭い視点でもって辿っていきます。
これってよっぽど博学じゃないと出来ないことですよね・・・。

ほんとうにこの本は学ぶ点が多く、歯ごたえのある1冊です。



◆学問的市民権を得ることが出来なかった日本の伝統思想

この本はちょっと面白い始まり方をします。

私は、これまで長いあいだ日本思想史の研究や講義を続けてきたが、
その感想を一言でいうと、「日本思想史」という研究分野は、学問としては
かなり中途半端なものであるという気持ちをぬぐいきれない。

よくよくいわれてみればそうだよなーというくだりが以下のところ。

「国史学」や「国文学」は立派な学問だが、「国哲学」などという名はきいたこともない。
「哲学」の代わりに「思想」というあいまいな言葉を使い、さらに「史」というシッポをくっつけて、
「日本思想史」という一定の学問分野らしき外観をつくろってはいるものの、
国史学や国文学にみられるような、厳密な文献学的実証という
基礎作業の場をふまえているわけではない。
専門研究者のための学問という見地からみたら、それだけでも失格といえるかもしれない。

序、ではこの理由が歴史的に解説されています。


神・儒・仏といった近代以前の伝統的思想は、
日本社会の近代化にとって有害無益のものとして排除され、
アカデミズムの世界に学問的市民権を得ることができなかったのである。
辛うじて、日本仏教はインド哲学者の副業として、また日本儒教は中国学者の副業として、
バラバラの形で二流の学問研究として存続をみとめられたにすぎなかった。
このため、近代日本の知識人インテリ層の基礎的教養は西洋近代思想におかれることになり、
日本の知識人の大多数は、その心性や感じ方において、
日本の文化的伝統から切り離された存在となった。

(中略)

日本の場合は近代化の速度が異常に急速であったため、思想状況のいちじるしい混乱をまねいた。
最大の混乱は、日本の伝統思想の研究がアカデミズムの世界から追い出された反面、
戦前の歴史が示すように、学会の外にある政治状況やジャーナリズムの側から
「日本思想」や「日本主義」がさかんに唱えられ、学者もその影響を免れることができず、
健全な学問としての日本思想の研究が育たなかったところにある。
正確な学問的基盤に立った日本の伝統的思想の研究は、諸先学の努力にもかかわらず、
戦前の八十年間、日本の社会に確たる根を下ろすことができなかったのである。


これは、日本にとって非常に残念なことですね。読んでいてため息が出ました。
半強制的に近代化(ソーシャルエンジニアリングの結果として)させられた国の
悲しさの一面を見せられた気がしました。
そういえば、昔、小室直樹さんも同じようなことを嘆いていましたっけ・・・また読み直さないとな。


ちなみに、著者の湯浅さんは、序においてこの後、いわば専門家のいない日本思想史の分野を
研究するためのご自身の方法論やよって立つ学問領域などをご紹介されています。



◆神話(英雄伝説)の心理学的解釈

この本の前半で非常に面白かったのが、目次の「3.文化の型はどうしてきまるか」です。
ここでは、エーリヒ・ノイマンという神話学者の説を参考に、
文化の型が決まっていくプロセスを紹介しています。


話をかいつまむと、神話においては一般的に母なるものが「大地」として表現され、
父なるものは「大空や天空」によって表現されます。
そして、母なるものからの独立の仕方いかんによって、人間と自然との関係の仕方が規定され、
父なるものからの独立の仕方いかんによって、倫理や法のあり方が規定されるというものです。

で、この理論を日本の古事記などに当てはめてみると、
母なるものからの独立が充分でないことがわかるそうです。
そして、このことは日本人のものの考え方に情緒的で
非合理な正確が強いことを意味するそうです。

そして、もう一方の父的なるものについてですが、
そもそも日本の神話には父的要素はあまりありません。
日本の最高神アマテラスは女性ですし・・・。
これは日本人の良さでもあり悪さでもあるのかもしれません。
日本には父的な要素がないため、ロゴスというか明確な理念や原理が
存在しないということを意味するわけですから・・・。



◆奈良仏教、平安仏教、鎌倉仏教

本書の「密教と日本文化」の章で面白かったのが、「2.密教による仏教の日本化」です。
ここでの指摘は目から鱗が落ちました。

一般的な仏教史の見方でいくと、奈良/平安仏教というのは人くくりにされ
鎌倉仏教と比較されることが多いのではないでしょうか。
私も通説どおりそのように認識していました。

しかし、本書ではむしろ奈良仏教と平安仏教の間に重要な非連続面が見出されるとあります。
いったいこれはどういうことなのでしょう。

本書を抜粋してみます。


奈良仏教は首都平城京の中心に設立された「都の仏教」であるのに対して、
平安仏教は比叡山や高野山を中心とした「山の仏教」である。
古代では、山は神々の住処として畏敬された一種の聖域であった。
この山岳信仰は、神話ないし古代神道の信仰習俗に起因する。
奈良時代には、国家の保護を受けた大寺院の仏教の外に、
国家権力の統制から脱した山林修行者の民衆的仏教の流れがあった。
その代表者は、後世修験道の開祖と目された伝説的人物役小角である。
最澄と空海は共にそういう山林修行の経験をもった人で、
彼らの哲学の背景には、山林修行の体験から得た考え方をよみとることができる。


さらに、湯浅さんはこういっています。


中国の密教は唐代で滅びてしまい、宋代の仏教は禅が主流になってゆく。
中国仏教はいわば「禅化」することによって「中国化」したのであるが、
日本仏教は「密教化」することによって「日本化」している。
その一つの理由は、密教特有のマンダラに端的に示されているように、
密教が仏教各派のなかでも多神教の最も代表的な形態を示していたからであろう。

以前、『神仏習合』を紹介した時にもありましたように、
古代宗教の神々国家鎮護としての仏教が密教により上手く結合できたということなんでしょうね。
そして、それは正統仏教から日本教としての仏教に様変わりしたことを表しているのかもしれません。

実際、最澄にいたっては、仏教で重要視されている戒律を誰の許可なく
グングン取っ払っていったわけですし・・・。

なんとなく、新興宗教が受け入れられる条件のようなものが判った気がします。


・・・・とまぁ、この本には日本人のエートスを解明するヒントが盛りだくさんなわけです。
あとは実際、本書を手にとってお確かめくださいな。






映画『ドゥームズ・デイ』を観ました


映画館で鑑賞する今年23本目の作品として、『ドゥームズ・デイ』を観てきました。
※観たのは今週の木曜日、9月24日です。大型連休ということもありブログの更新をサボっていました・・・。

映画のカテゴリーとしてはB級アクションホラーといったところでしょうか。
もともとノーマークな作品でしたが、監督があのニール・マーシャルだと聞いて、
是非とも映画館で観なくてはと思った次第です。

ニール・マーシャルという監督は、『ドッグソルジャー』や、傑作『ディセント』を作った人です。
といっても、ごく一部の人にしか通じないと思いますが(苦笑)。
※上記2作品を知っているあなたは、かなりのB級ホラー通だ!!

期待して映画館に足を運びましたが、結果は・・・いまいちでした。

バイオハザードによって、イギリスは国家的に強制鎖国状態に追いやられ
30年間世界から見捨てられます。
しかし、30年後の違う国で、バイオハザードが再発するという由々しき自体が発生します。
国の滅亡を防ぐには、見捨てられた国家であるイギリスにいる生き残りを見つけ
ワクチンを作らなければなりません。
そこで特殊チームが編成され、イギリスに潜入します。

潜入しなければいけない理由というのは、バイオハザードでイギリスが滅んだ時に、
イギリス全体を現代版万里の長城によって、国民を国外に脱出不能にしたからです。

ネタバレになりますが、30年間も世界から見捨てられると
エネルギーも食料もなくなるわけで、そこに住む人たちは原始的な生活に回帰せざるをえなくなるわけです。
そんななかに国外から人が侵入していくとどうなるかは、多少想像がつきますよね・・・?
この作品、映画『バイオハザード』、『マッドマックス』を足して3で割ったくらいの内容です。

興味がある人はDVDで鑑賞されれば充分だと思いますよ。

2009年9月15日火曜日

岡本太郎/平野暁臣

ぼくはきみの心のかなに実在している。疑う必要はいっさいないさ。そうだろ。
                            
                                       岡本太郎


こんなに強烈なのに、とってもダンディでジェントルマンな男というのは
そう滅多に出会えるものではないのでしょうね。

情熱に溢れた人物はよくお目にかけますが、
存在そのものが情熱であり、愛であり、格闘であるという人は稀です。
そういう人のことを私は天才と呼びたいと思います。

そう、その人こそが岡本太郎です。
私を魅了してやまない数少ない人物のうちの一人です。

岡本太郎氏のパートナーであった岡本敏子さんが
こんなことを言っている・・・。

闘うことに、彼は運命を賭けてしまった。
もっと、ほかの生き方もあったかもしれないのに。
闘うことが面白かったからだろうか。

そう。岡本太郎は常に何かと闘っていたのだとおもいます。
何かと闘いながら彼ならではの芸術を生み出していきました。

そんな彼の芸術作品のなかでも、ひときわ異彩を放っているのが
皆さんよくご存知の「太陽の塔」ではないでしょうか。

わたしは、このオブジェを写真で一目見たときから魅了されました。

岡本太郎さんじゃないですが一目見たときから「なんだこれは!!」でした。
私にとって「太陽の塔」とは理解不能で忘却不能な不滅の塔だったわけです。

どでかい牛乳瓶のお化けに、羽が生え、てっぺんには金ぴかの鳥(?)のような顔、
おなかの部分にはあたかも「フン、くだらん」とでもいいたげな口をとんがらせた顔・・・。
これを観て忘れられるわけがないでしょうに。

一体全体、岡本太郎という人はこのオブジェにどのようなメッセージをこめたのだろう?
このオブジェに秘められているはずのテーマがこれまで全然わからずじまいでした。

しかし、今回ご紹介する書籍『岡本太郎 「太陽の塔」と最後の闘い』を読んで、
これまで抱いてきた疑問が氷解しました。

そして改めて岡本太郎というベラボーマンに心を奪われました。
この本は基本的には大阪万博をベースに岡本太郎の人物を紹介するという
いわゆる人物伝の体裁になっていますが、人物伝を読んで泣けてきたのはこれが初めてです。

岡本太郎という人物もいいが、著者の平野さんの書きっぷりももの凄くいいです。

平野さんはこういう感じで本書のスタートを切ります。


太陽の塔は、モニュメントをつくって欲しいなどとは一言も頼まれていないのに、
太郎さんが勝手に構想し、力ずくで突き立てたものなのである。
会場のド真ん中にあれが出現することになって、いちばん驚いたのは
発注者である万博協会の人たちだったのではないかと思う。
なぜ太郎さんはあんなものをつくったのだろう?
なにが彼をそこまで駆り立てたのだろう?
そもそも太陽の塔とはなんなのか?
このシンプルな疑問が気になって仕方がなかった。
単純に太陽の塔が好きだからなのだが、それだけではない。
その答えを探すことこそが岡本芸術を実感する一番の近道だと思うからだ。
太陽の塔は芸術家・岡本太郎の集大成である。
太陽の塔を考えることは岡本太郎を考えることとほとんど同義だと思う。
だが残念ながら太郎さんはその答えを残してはくれなかった。
だから一人ひとりが自分で見つけるしかない。
ぼくも自分なりの答えを探してみたい。これが本書のテーマだ。

このエントリーを読まれた皆さんが、本書を読みおえたとき、
本文の最初に紹介した岡本太郎さんの言葉を噛み締めることになるでしょう。

みなさんはもうひとりじゃない。皆さんの中には岡本太郎が存在している。
疑う必要なんてないさ。そうでしょ、みなさん。


本エントリーでは、余計な内容紹介は一切行いません。
本書自体が、「太陽の塔」に秘められた岡本太郎のメッセージをコードブレーキングしていく
展開手法をとっていますので、下手な紹介は推理小説の種明かし同然になってしまうからです。

迷う必要はありません。
早く本屋に行って、本書を買って、読んで、感動してください。

内容を紹介する代わりに、この本の帯に紹介されている磯崎新さんの
紹介文を抜粋して終わりにしたいと思います。


岡本太郎を日本の思想史における20世紀の重要事件としてとりあげること。
政治、社会、文化、芸術、のすべてが、この男、タローのそんざいによってうかびあがる。
日本の21世紀は、はたしてこの男を超えることができるだろうか。

世界的文化人類学者&民俗学者であるマルセル・モースの弟子にして、
世界的な芸術家、岡本太郎。
この人を知らずして皆さんの人生を終えるなかれ。



2009年9月13日日曜日

性と暴力のアメリカ/鈴木透

アメリカを見るときの補助線としては何がうってつけだろうか?
おそらくそれは「政治」と「経済」と「宗教」、3つの視座だろう。
この本は、上記のうちの「政治」と「宗教(思想)」の切り口で
アメリカを読み解く視点を提供してくれている。
おそらくアメリカを知るときの基本文献としてうってつけではないだろうか・・・。



保守主義のアメリカ、共和制のアメリカ、
禁欲主義のアメリカ、性革命のアメリカ、
フロンティア精神のアメリカ、自由のアメリカ、
軍事大国のアメリカ、小さな政府のアメリカ、
銃社会のアメリカ、学問のアメリカ、
人種差別のアメリカ、同性愛のアメリカ・・・

とまぁ、いろんなアメリカがあります。

ややもすると歴史というものは、時系列に発生した
様々な事象(イベント)の連鎖でしかないように見えます。
特に、ニュースなどをとおしてしか触れることのない外国事情などというのは、
いまいち実感がわかず、知的な基軸を作って多角的に分析していくなんてことは
一切せずに終わってしまうのが普通です。

ま、相手国たいして重要な位置づけでもない国であれば、
そういうことでもいいかもしれませんが、相手が日本の命運を左右しかねない国、
世界の全ての国が注目する国だとしたらどうでしょうか?
そうです。相手はあのアメリカです。

私は個人的に、日本人はアメリカという国の歴史、特に思想的な国の成り立ちを
徹底的に知っておくべきだと思っています。

「俺はアメリカと政治交渉するわけでもないから別に知らなくてもいいや」という考えもあるかと思いますが、
私はこの考えに与しません。

大学時代にある国際ビジネスの舞台を飛び回っている方から直接聞いたお話が
今でも頭から離れないからです。

世界は国籍不明のコスモポリタンを相手にしてくれるほど甘くはないよ」という言葉です。
要は自分たちの出自や相手の出自をきちんと把握もせず、頭だけ勝手に世界市民になって
英語が話せるからと日本を飛び出してみても、世界のビジネスの要人たちからは
影で馬鹿にされるだけだ、ということです。

政治に関わる関わらない関係なしに、社会人の必須知識として
アメリカという国の歴史や思想基盤は知っておきましょうね。
※私もほとんど偉そうなこといってる割には何も知りませんのでコツコツ勉強中なんです・・・。


◆目次

はしがき
序論 「処女地」の凌辱

第一部 「性と暴力の特異国」の成立 植民地時代~1960年代

第一章 「性の特異国」の軌跡
    1.「完全なる性関係」を求める社会
    2.性道徳の法制化
    3.性への恐怖
    4.「性革命」と女性解放

第二章 「暴力の特異国」への道
    1.「小さな政府」とフロンティア神話
    2.リンチの系譜
    3.マフィアとFBI
    4.米軍の海外展開と「軍事社会」の出現

第二部 現代アメリカの苦悩 1970年代~

第三章 「性革命」が生んだ波紋
    1.同性愛者の人権
    2.妊娠中絶論争
    3.異人種間の性関係

第四章 悪循環に陥ったアメリカ社会
    1.銃社会の迷宮
    2.子どもへの性的虐待と死刑執行
    3.巧妙につくられる「環境差別」

第五章 「暴力の特異国」と国際社会
    1.リンチ型戦争の時代
    2.原爆論争とテロの記憶
    3.アメリカと世界の責任

あとがき
参考文献
関連年表

以上、合計264ページで構成されています。



◆本書の目的

著者の鈴木さんは、本書の目的を以下のとおり2つあげています。


第一の目的は、アメリカにおける性や暴力をめぐる問題の歴史的、法的、
政治的、社会的、文化的側面を総合的に検証しながら、
性や暴力がアメリカという国が抱える根源的な課題を如実に反映している様子を
浮き彫りにすることにある。

第二の目的は、同性愛や妊娠中絶論争、銃規制や原爆論争など、
現代アメリカが直面する性や暴力をめぐる諸問題の奥行きと広がりを
鮮明にとらえることにある。


と述べられています。


◆アメリカ解読の切り口として・・・性と暴力とアメリカの大地(アメリカ史の精神分析)

この本を読んでいて、面白かった点の一つが
アメリカ史の精神分析の手がかりです。

著者はアメリカ文学研究者であるアネット・コロドニーの研究を紹介しているのですが、
これが面白い!!ちょっと唸りました。

彼女は、性と暴力とアメリカの大地という三者を結びつけるような思考が、
植民地時代から形成されてきたことを示唆し、
いわばアメリカ史の精神分析というべき議論を展開する。
それは、男性の性的欲望がアメリカの歩みに投影されているという刺激的な解釈である。
なんでも、このコロドニーさんの研究によると、アメリカの文献に特徴的なのは
一般的に「母」として捉えられる大地が、アメリカの場合は「処女」になぞらえられる傾向にあるんだそうです。
アメリカの開拓者たちは、未開の自然を、男性が処女を暴力的に征服・支配するというアナロジーに
見立てて表現することが多かったんだとか。

アメリカの大地そのものが、実は女性化された存在であって、
それを暴力的に征服していく営みこそ、アメリカの軌跡そのものだった
というのがコロドニーさんの結論のようです。

ではなぜ、アメリカはこのような軌跡を歩まなければならなかったんでしょう?
どうです、興味わいてきませんか?

続きは、本書を読んでのお楽しみです。
読んで損はしない一冊ですから、是非読んでください。
※中公新書ですから、本屋にいけば置いてあるかもしれません。初版は2006年9月25日です。